日曜日のみことば
11月27日 待降節第1主日
第一朗読 イザヤ書 2:1-5
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
第二朗読 ローマの教会への手紙 13:11-14a
(皆さん、)あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。
福音朗読 マタイによる福音 24:37-44
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
祈りのヒント |
私がこの福音箇所を読んではじめに気になったのは、「二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」というところです。その時の思いは、どうして見た目はなんの変わりもないのに、一人は連れて行かれ、もう一人は残されるの?私はきっと連れて行かれるほうだな、と不安のような居心地の悪さを感じていました。この感じを心のすみに置いたまま、何日かを過ごしました。その間、いつものようにミサに与り、仲間と、あるいは一人でロザリオの祈りをする機会もあり、また奉仕活動での分かち合いの機会もありました。祈る時、私の心は平安で、仲間との関わりは時には苦しみや葛藤も伴いますが、豊かで、人々や主とのつながりを感じるものでした。 そして、あらためて今日のみ言葉を味わいました。パウロは「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(ローマ13:12)「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ローマ13:14ab)と語っています。私ははじめ、自分の内にある「欲望を満足させようとして、肉に心を用いたこと」、つまり闇の行い、眠っている私にばかり思いがおよんでいて、不安を感じていたことに気がつきました。しかし同時に、私は洗礼によりキリストに結ばれ、キリストを着るものとなりました(ガラテヤ3:26-27参照)。ミサに与ってみ言葉を聴き、自分自身を捧げ、ご聖体をいただき、キリストと、兄弟姉妹と一致し、派遣されています。確かに「主はわたしたちに道を示される」(イザヤ2:3)を体験しています。「二人の女」は私の内に存在していたのです。 私たちは日常生活の中で静まりの時を持ち、聖霊の導きによって、「今私は眠っているのか、目覚めているのか」識別する必要があります。イザヤ書には「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2:4)とあります。私たちは自分の内にある剣や槍を自らの意志で打ち直し、鋤や鎌とすることができるのです。戦う道具ではなく平和の道具で自分自身をたがやし、光の中を歩む者となる自由意志を持っているのではないでしょうか。 今、この時、静かに自分自身を見つめ、祈り、キリストと結ばれ、光の中を歩む恵みを願います。 |
(日曜日のみことば 2022-11-27) |