11月3日 年間第31主日

第一朗読  知恵の書 11:22-12:2
(主よ)御前では、全宇宙は秤をわずかに傾ける塵、朝早く地に降りる一滴の露にすぎない。全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。
あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、罪のきっかけを思い出させて人を諭される。悪を捨ててあなたを信じるようになるために。

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 二 1:11-2:2
(皆さん、わたしたちは)このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。

福音朗読  ルカによる福音書 19:1-10
(そのとき、)イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

祈りのヒント
 教皇フランシスコの訪日が決定し教会の中でもいろいろな準備がされています。38年前教皇ヨハネ・パウロ2世が訪日した時、教皇に触れようとした人、少しでも近くから見ようとした人の中に私がいた時にことを思い出します。

ザアカイはイエスがエリコに入られたことを聞き、どんな人か見ようとしていたが人垣もあり、背が低かったこともあってイエスを見ることができませんでした。そこで、彼は是が非でも見ようとして先回りをしてそこを通られるはずのイエスを見ようとして、いちじく桑の木に登ります。

彼は、徴税人の頭で金持ちでした、きっと立派な服を着ていたことでしょう。その彼がいちじく桑の木に登る姿は、周りの人から見るとかなり滑稽であったのではないでしょうか。そんな彼を、恥も外聞もなく木に登らせるまで駆り立てた気持ちは一体何だったのでしょう。それは、どうしても見たい、見なければならないという強い意志があったからではないでしょうか。

聖書の中で【見る】という言葉の中に、景色を見る、よく観察して見る、心から深く見るというように同じ【見る】の中にいくつもの意味があるようです。ザアカイがイエスを「見たいと」いう気持ちは、裕福だけど人からの冷たい目線を受け、軽蔑され、周りから罪人だというレッテルを貼られていても生活のために徴税人という仕事をしている、そのような満たされない気持ちを知って欲しい、できるならば癒して欲しいという気持ちがあったからではないでしょうか。

イエスは、そのような彼の心にお応えになられます。イエスはザアカイが登っているその木の下に来られると、見上げて「ザアカイ、急いで下りて来なさい。今日、わたしはあなたの家に泊まるつもりだ」と言われます。イエスの言葉の中には、「もう登っている必要ない。あなたの背が低いとか、人からの妨げがあるとかもう関係がない」という意味があったのではないでしょうか。ザアカイは、イエスのこの言葉を聞いてどんなに喜んだことでしょう。彼は、イエスに触れ、心の底から変わっていきます。

私たちは、人それぞれ弱い部分、辛い部分を持っています。イエス様は、そんな私たちの心に気づかれ「急いで下りて来なさい」と声をかけられているかもしれません。私たちは、このイエスの愛で満ちた声かけに耳を澄ませて聴くことができたらいいですね。

(日曜日のみことば 2019-11-03)

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