11月4日 聖カロロ・ボロメオ司教

第一朗読  ローマの信徒への手紙 11:29-36
(皆さん、)神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

福音朗読  ルカによる福音書 14:12-14
(そのとき、イエスは招いてくれたファリサイ派の議員に言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

祈りのヒント

~お返しができない人々を~
「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです」(ローマ13・8)

今日読まれるルカ福音書において、昼食や夕食の会を催すときには、誰を招くとよいかをイエスは語られました。
私たちが「友人、兄弟、親類、近所の金持ち」を招くのは当然でしょう。しかし、イエスにとってはむしろ当然ではありません。イエスにとって当然であることは「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を招くことです。なぜでしょうか。これらの人は招く人にお返しをすることができないからです。これは私たちにとって、難しいことではないでしょうか。招き、招かれる「お互い様」で、誰に対しても借りがなくなると考える私たちにとって、イエスの語られたことは、非常識とも映るかもしれません。

(毎日のみことば 2019-11-04)

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