11月8日 年間第32主日

第一朗読  知恵の書 6:12-16
知恵は輝かしく、朽ちることがない。知恵を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。求める人には自分の方から姿を見せる。
知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに自宅の門前で待っている知恵に出会う。
知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、知恵を思って目を覚ましていれば、心配もすぐに消える。
知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、道でその人たちに優しく姿を現し、深い思いやりの心で彼らと出会う。

第二朗読  テサロニケの信徒への手紙 一 4:13-18
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
《主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。》

福音朗読  マタイによる福音書 25:1-13
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

祈りのヒント
今日の福音で、イエスは天の国のたとえを10人のおとめと花婿の出会いの物語を用いて語られます。天の国は花婿とおとめの出会いの喜びに似ていて、それは、まさしく、神さまと私たち一人一人の喜びの出会いだと。

この話の中で、10人のおとめの5人は賢く5人は愚かだと、イエスは話し始めます。
10人とも灯火を持っているのですが、愚かなおとめは壺に灯火用の油を持っていないのです。また、愚かなおとめが賢いおとめに「油を分けてください」と頼んだときに返ってきた言葉はこうでした。「分けてあげるほどはありません。自分の分を買ってきなさい。」
そして、この話の終わりに
「目を覚ましていなさい。」と、イエスは言われます。

この物語を読み味わっていると、次の詩編の箇所が思い出されました。

“主よ、あなたはわたしを極め、わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け、私の道にことごとく通じておられる。
主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いていてくださる。“(詩編139)

私たち一人一人と神さまとの出会い。それは、全く個人的な出会いです。
私が他の人に、「替えてください、交換してください」とお願いできるようなものではなく
私と神様の出会いは、私と神様のかかわりにかかっているのです。
おとめたちは花婿に出会いに行きますが、いつ花婿がくるかわからず眠ってしまいます。
私たちも、神さまに出会いたいと思いつつ、それがいつなのかわからないと他のことに気をとられ、挙句の果て心の願いも忘れてしまいます。
しかし、出会いのイニシアティブは、結局花婿の方にあり、おとめにとって大切なことは
壺に油をもって火を灯し続けているかどうか、ということだとイエスさまが教えてくださっているように、私たちと神さまとの出会いも、無条件で無限に注がれている神さまの御心に私たちが気づいているかどうか、にかかっているようです。

どれほど、神さまは私たち一人一人を心に掛けていて下っていることでしょう。毎日、一瞬、一瞬。それは、私たちが気付かないほどに多く、私たちの日常に満ちあふれているのです。
神さまの御業は、優しく静かで、私たちの思いを遥かに超えています。
ですから、私たちの心の中に、神さまの御心を思いめぐらす場所がどうしても必要なのです。
心にその場所があれば、私たちはそこで神様と出会い喜びに満たされるでしょう
と、イエスは語っていて下さいます。

(日曜日のみことば 2020-11-08)

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