12月1日 待降節第1主日

第一朗読  イザヤ書 2:1-5
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 13:11-14a
(皆さん、)あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。

福音朗読  マタイによる福音書 24:37-44
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

祈りのヒント
 私たちは、誰かを待つという時、そのかたをもてなすためにいろいろと準備をいたします。家の掃除をし、料理のための材料を買いに行きます。その方が大切な方なら心の準備もすることでしょう。今年は、教皇フランシスコの来日もあり祈りを持って、またそれぞれの活動や企画を持って教皇フランシスコを迎える準備をしたことでしょう。

典礼は「待降節」に入りイエスの誕生を待つ季節となります。では、どのように【待つ】のでしょうか。みことばは、「ノアの洪水」の場面を想起いたします。それは、洪水が起こるまで人々は、いつもと変わらない生活をしていました。ただ、ノアだけがおん父から言われた通りに箱船を作って洪水が来てもいいように準備をいたします。また、2人の男、2人の女を用いられ、1人は救われ、1人は救われないという、何だか恐ろしい譬え話が書かれています。この救われなかった人が罪を犯していたということでしょうか。いいえ、その人は、いつもと変わらない生活をしていたのです。では、何が違っていたのでしょう。

きょうのみことばの中にヒントがあるようです。イエスは、「目を覚ましていなさい」「用意をしていなさい」と言われます。このことは、どういうことでしょか。イエスの来臨は、今日なのか明日なのか、はたまた100年先なのか誰もわからないのです。イエスは、「その日、その時は、誰もしらない。天の使いたちも、子も知らない。ただ、おん父だけが知っておられる。」(マタイ24・30)と言われます。私たちは、いつ来るかをわかっているとその日に向けて準備をするというのは、テンションも上がり計画も立てやすいことでしょう。しかし、いつ来られるのか分からない人を待つというのは難しいことです。

この「目を覚ます」「用意をする」というのは、その方のことを【意識する】、【目を向ける】ということではないでしょうか。私たちは、イエスのことを知っていますが、日常の生活の中では、ついつい忘れてしまします。ミサの時、祈りの時などは、イエスのことを意識することでしょう。しかし、そうでない時、忙しい時はイエスではなく、自分のことで一杯になってしまいます。日頃の生活の中でイエスに目を向ける、意識しながらイエスの誕生を待つことが出来たらいいですね。

(日曜日のみことば 2019-12-01)

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