12月30日 聖家族

第一朗読  サムエル記 上 1:20-22、24-28
(エルカナの妻)ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。さて、夫エルカナが家族と共に年ごとのいけにえと自分の満願の献げ物を主にささげるために上って行こうとしたとき、ハンナは行こうとせず、夫に言った。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう。」
乳離れした後、ハンナは三歳の雄牛一頭、麦粉を一エファ、ぶどう酒の革袋を一つ携え、その子を連れてシロの主の家に上って行った。この子は幼子にすぎなかったが、人々は雄牛を屠り、その子をエリのもとに連れて行った。ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。

第二朗読  ヨハネの手紙 一 3:1-2、21-24
(愛する皆さん、)御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。

福音朗読  ルカによる福音書 2:41-52
(イエスの)両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

祈りのヒント
2018年、平成30年が終わろうとしている日曜日。少年イエスが父の家にいる、それが当たり前だという意味を深く掘りさげてみたいと思う。

日本に住んでいるわたしたちなら、「平成」という語が何を意味していているか、なんとなく知っている。日本には日本独自の元号があり、歴史を紐解いてみればそれがどのように変わってきたかも知っている。そして、平成は来たる年、31年で終わることになっていることも知っている。日本という国を象徴する天皇が生前皇位継承を行うからだ。来たる年には大きな儀式が待っているだろう。メディアは騒がしくなるだろう。人びとは自分の生きてきた時代をしみじみと振り返るだろう。

この元号の変化によって、自分が所属している国と生きた時代を個々の日本人は意識するだろう。わたしの生きた時代、わたしの生まれた国。同世代、同じ時代、同じ国の……日本人。しかし、平成30年が終わろうとしている今日、視野を広げてわたしの国、わたしの時代を見てみたい。中国語が聞こえる、韓国語が聞こえる、聞いたことのない言語が耳に入ってくる。この人はどこの国から来たんだろう、何か心配そうな顔をしている。不安そうな目をしている。声をかけてもいいのだろうか、日本語は通じるのだろうか。

生きるために、国境を越えなければならない人びとがこの世界に多く存在している。この人びとの国は、この人びとの家族は、この人びとの家はいったいどこなのだろう。

聖家族の祝日。

それは、自分の頭で想像できる範囲の「家族」という言葉を越えさせていただく日なのではないだろうか。イエスの母は、自分の息子が心配なゆえに、少年イエスを探し回った。血のつながった子が大事なのは当たり前だ。母の心だ。そんな母にむかってイエスは自分自身が血縁を越えて、神の家族の一員であることを母にさとしている。父の家にいるのは当たり前。わたしを探さなくていいよ、と。イエスは、母の考える「当たり前」を新しい次元で生きる。

国境を越えて、日本にやって来た移住者に、ここは「あなたの家」、「あなたは父なる神の家にいるんだよ、心配しなくていいよ」って声をかけたい。自分自身の狭い了見を越えて、無自覚に同世代、同時代と言って同調しそうな傾きを越えたい。イエスが「父の家にいることが当たり前」という、その感覚を知ることができますように。

(日曜日のみことば 2018-12-30)

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