12月5日 待降節第2主日

第一朗読  バルク書 5:1-9
エルサレムよ、悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で永遠に飾れ。
神から与えられる義の衣を身にまとい、頭に永遠なる者の栄光の冠をつけよ。神は天の下のすべての地に お前の輝きを示される。お前は神から「義の平和、敬神の栄光」と呼ばれ、その名は永遠に残る。エルサレムよ、立ち上がれ、高い山に立って東の方に目を向けよ。お前の子らは、神が覚えていてくださったことを喜び、西からも東からも 聖なる者の言葉によって集められる。お前の子らは敵に追い立てられ、徒歩でお前のもとを去ったが、神は彼らを、玉座につく王のように高く上げ、栄光のうちにお前のもとに連れ戻される。すべての高い山、果てしなく続く丘は低くなれ、谷は埋まって平地になれ、と神は命じられた。それはイスラエルが神の栄光に包まれ、安全に歩むため。森も、香り高いすべての木々も、神の命令でイスラエルのために木陰をつくる。神は自らの慈しみと義をもって栄光の輝きを表し、喜びのうちにイスラエルを導かれる。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 1:4-6、8-11
(皆さん、わたしは、)あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

福音朗読  ルカによる福音書 3:1-6
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

祈りのヒント
最近の自動車は、カーナビゲーションがついていて、初めて行く場所でも、正確に目的地まで案内してくれます。以前地図を頼りに行っていたときは、本当にこの道でいいのか、目的地まで行くことができるのかと不安になることもあったのですが、カーナビゲーションがあれば本当に便利で、安心して目的地に行くことができるようになりました。
きょうのみことばは、イエスが宣教される前に、洗礼者ヨハネに神の言葉が降った場面です。みことばの冒頭は、何人かの歴史的な人物が描かれ、どのような時代だったのか、また、どのような政治が行われていたのかがわかるのではないでしょうか。もしかしたら、彼らの圧政のために人々は苦しい生活を強いられていたのかも知れません。
そんな時、荒れ野にいる洗礼者ヨハネに【神の声】が降ったのです。荒れ野は全くの神への全幅の信頼がなければ生きていけない場所でした。そこには、皇帝をはじめ総督、領主の政治的な力が及ばない場所でもあり、神と一対一の世界と言ってもいいでしょう。
洗礼者ヨハネは、ヨルダン川周辺で神の福音を告げ知らせ、罪の赦しへと導く悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。人々の中には、自分の生活に対して不安を持っていた人もいたのでしょうし、生活が豊かでも、罪の状態、生ぬるい生活に気づき始めた人もいたのかもし知れません。彼らは、自分の弱さ、罪の状態と向き合い始めていたのです。そんな彼らは、洗礼者ヨハネの言葉や生き方が新鮮に感じられ、琴線に触れたのではないでしょうか。
みことばは「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ」とあります。私たちは、自分が歩んでいる道が真っ直ぐなのか、曲がっているのか、でこぼこなのか気づかないまま苦しんでいるのではないでしょうか。聖霊は、そんな不安な私たちの心をおん父の方向へ導いてくださいます。私たちは、改めて自分の心の中に目を向け、心の耳を澄ませて聖霊の導きに従いながら、おん父の方に向かって歩むことができたらいいですね。
(日曜日のみことば 2021-12-05)

 

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