日曜日のみことば
12月7日 待降節第2主日
第一朗読 イザヤの預言 11:1-10
(その日、)エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。
狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。その日が来ればエッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
第二朗読 ローマの教会への手紙 15:4-9
(皆さん、)かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。
福音朗読 マタイによる福音 3:1-12
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
| 祈りのヒント |
| 私たちは、何かしら【罪】を犯しています。ある方と話をしていたとき、「私は罪を犯したことはありません」と言われるのを聞いたことがあります。確かに、日常生活の中で余程のことがない限り、【罪】を犯すことはないでしょう。たとえば、人を傷つけたり、盗みをしたりなどいわゆる社会の中でいう【罪】は、普段犯すことはないのではないでしょうか。 私がまだ中学生の志願者の頃、「告解の時間」があって、「告解(ゆるしの秘跡)」をする前に、「糾明帳」に「○○をしませんでした」とか「○○のような悪いことをしてしまいました」など、自分が犯した罪を「糾明帳」に箇条書きにして、神父様に赦しを願っていました。当時は、祈りの本の「ゆるしの秘跡」の部分に「罪のリスト」というような箇所があって、その中から自分が犯したものを選んで書いた記憶があります。 さて、きょうのみことばは洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝える場面です。人々は、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けていました。 彼らの中には、徴税人や遊女など、人々から【罪人】というレッテルを貼られた人もいたでしょうし、自分の中にある【罪】を意識していた人もいたことでしょう。また、仕方なく「律法」の規定を行うことができない人もいたのかもしれませんし、自分の弱さからついつい【罪】を犯してしまった人もいたのではいでしょうか。ヨハネは、そのような人々に対して【洗礼】を授け、「罪の束縛」から解放していたのです。 私たちは今、典礼では「待降節」を歩みながらイエスの誕生を待ち望んでいます。私たちは、ヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた」という叫びに心の耳を傾け、相応しい心でイエスをお迎えすることができたらいいですね。 |
![]() |
| (日曜日のみことば 2025-12-07) |


