2月1日 年間第4主日

第一朗読  ゼファニヤの預言  2:3, 3:12-13
主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた この地のすべての人々よ 恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に あるいは、身を守られるであろう。
わたしはお前の中に 苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避け所とする。
イスラエルの残りの者は 不正を行わず、偽りを語らない。その口に、欺く舌は見いだされない。
彼らは養われて憩い 彼らを脅かす者はない。

第二朗読  一 コリントの教会への手紙 1:26-31
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

福音朗読  マタイによる福音 5:1-12a
(そのとき、) イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

祈りのヒント
「幸せ」は人によって違います。たとえば、自分が欲しかった自動車を購入できた時、美味しい食事をお腹いっぱい食べた時、好きな人と結婚できた時、あるいは、美しい音楽を聞いている時、長年患っていた病気が癒やされた時など、人が【幸せ】を感じるのは、十人十色と言ってもいいでしょう。
きょうのみことばは、イエスが群衆とともに山に登られ、教えられた『山上の説教』と呼ばれる場面です。イエスの教えは、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」という言葉から始まっています。どうして「心の貧しい人は幸い」なのでしょうか。私たちの常識では、「貧しい」より「富んでいる」方が幸せを感じます。このことは、今に限らずイエスの時代でも同じだったことでしょう。群衆は、イエスのこの教えを聞いたとき、「そんなことはないでしょう」と疑問に思ったのではないでしょうか。
イエスは、決して物質的なこの世の「幸せ」について語られたのではないようです。イエスのところについてきた人々は、病気の人や徴税人や周りから蔑まれていた人、ローマ人や一部の裕福な人たちに搾取されていた人など、裕福な人はいなかったのではいでしょうか。そのような「貧しい人」に対してイエスは、「心の貧しい人々は、幸いである」と言われ、その後に「天の国はその人たちのものである」と言われます。イエスの教えは、【天の国】の状態、おん父との交わりの状態について言われているのではないでしょうか。
イエスは、最後にも「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と言われます。ここでも【天の国】とあります。イエスは、一人ひとりがおん父とともにいること、おん父へ向かう心にある時に【幸せ】であると教えられているのではないでしょうか。
私たちが日常の生活の中でさまざまな苦しみ、悲しみの中にあっても、イエスはいつもともにいてくださり、おん父へと導いてくださいます。私たちは、そのイエスの愛に信頼しながら歩んでゆくことができたらいいですね。
(日曜日のみことば 2026-02-01)

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