2月13日 年間第6主日

第一朗読  エレミヤ書 17:5-8
主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし その心が主を離れ去っている人は。
彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく 人の住めない不毛の地 炎暑の荒れ野を住まいとする。
祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。
水路のほとりに根を張り 暑さが襲うのを見ることなく その葉は青々としている。
干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶことをやめない。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 15:12、16-20
(皆さん、)キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

福音朗読  ルカによる福音書 6:17、20-26
(そのとき、イエスは十二人)と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、(来ていた。)
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。
すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

祈りのヒント
今日の福音でイエスが私たちに語られる言葉、一つ一つの言葉にじっくり耳を傾けてみたい。

「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」
「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。」
「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」

大勢の弟子とおびただしい民衆があちらこちらから来ていた、とルカは語っています。
私たち、皆が等しく、人生の歩みの中で幸いを求めて生きていると言えるのでしょう。
しかし、イエスの言う“幸い”は、世間一般的な幸いとはずいぶん違います。逆の価値観だと言えるでしょう。
どうしてイエスは、このようなことを告げられるのか、と思いながらイエスのみ言葉を心の中で繰り返し唱えていると、ある修道院で、私の友人である姉妹(シスター)たちと一緒にお祈りをした時に繰り返した、お祈りの言葉が懐かしく心に浮かびあがりました。

「限りなく人々を慈しまれたイエスのみ心
人皆が救われますように。
限りなく人々を慈しまれたイエスのみ心
愛と正義のうちに世界を平和で満たしてください。
限りなく人々を慈しまれたイエスのみ心
信じる人々の迫害者にも、弱い人を圧迫する人にも、あなたの愛が勝ちますように。」

限りなく人々を慈しまれるイエスの愛。
その愛が、今日語られている“貧しい人”“飢えている人”“悲しむ人”の上に注がれている。
私の隣にいる“貧しく、飢えていて、悲しんでいる人の中に、イエスの愛が注がれている。また、私自身の中にある貧しく、飢えたところ、悲しんでいるところにイエスの愛が注がれている。限りなく、いつも。
この幸いを、告げ知らせに来てくださったイエスに、深く感謝したい。
また、この幸いに心の目を向けて、毎日、日常の小さな生活を大切に生きていけるように、祈り、恵みを願いたい。

主イエスの愛と正義のうちに、世界が平和で満たされますように。

(日曜日のみことば 2022-02-13)

 

ページ上部へ戻る