2月16日 年間第6主日

第一朗読  シラ書(集会の書) 15:15-20
その意志さえあれば、お前は掟を守り、しかも快く忠実にそれを行うことができる。主は、お前の前に火と水を置かれた。手を差し伸べて、欲しい方を取ればよい。人間の前には、生と死が置かれている。望んで選んだ道が、彼に与えられる。主の知恵は豊かであり、主の力は強く、すべてを見通される。主は、御自分を畏れる人たちに目を注がれる。人間の行いはすべて主に知られている。主は、不信仰であれとは、だれにも命じたことはなく、罪を犯すことを、許されたこともなかった。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 2:6-10
(皆さん、)わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」
と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。

福音朗読  マタイによる福音書 5:17-37
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。《兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。》」
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」《もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」》
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。
《天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。》
あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

祈りのヒント
単に掟を忠実に守るだけでは足りない。――このことをイエスさまは弟子たちに伝えています。むしろ、相手に接するときの心のもちかたが大事にされています。形式的に、何の落ち度もないふるまいをしていたとしても、相手を欲望のまなざしで眺めていれば、すでに罪が始まっています。イエスの弟子として生きるというときに、うわべだけの取りつくろいではなく、心から相手を大切に受けいれて生きることが何よりも必要なのです。

父である神に信頼して生きることが、あらゆる人間の人生の送りかたなのですが、それを最も充実したかたちで見せてくれたのがイエスさまでした。イエスさまは、常に聖霊のはたらきを、すなおに、伸びやかに、解放しながら歩みました。弟子たちは、まだまだイエスさまのようにはふるまうことができませんでした。父である神に信頼する気持ちが成熟していなかったからです。しかし、神はあらかじめ弟子たちの行く末を案じており、イエスさまを遣わすことで弟子たちを徐々に成熟させて、確実に支えていきました。

成熟するということは、自分の意志で、よいものを選ぶ決断力が身につくことです。自分で、よいものを判断して選びとることができるとき、人間は大人としての信仰の姿勢を生きることができるようになります。子どものようなすなおな心で、大人としての成熟した選択をすることが、神から弟子たちには要求されています。

今日もまた、私たちは神や隣人たちとの関わりかたを見直していくことが必要です。ていねいに、相手を理解して支えること。ちょうど、神が私たちひとりひとりをていねいに理解して、常に親身になって支えているように。私たちも同じ姿勢で生きる努力をつづけることが重要となっています。

ていねいに接してもらえた相手は、感謝の気持ちをいだいて、おだやかな心で、おたがいのよりいっそう深い関わりをつくりあげていけるようになります。ゆっくりと、着実に。神と人、人と人が、交流していくときに、そこには神のいつくしみが満ちあふれる空間がおのずと開けていきます。居心地のよい、うれしいひとときが皆を安心させることにつながるのです。

(日曜日のみことば 2020-02-16)

ページ上部へ戻る