2月6日 年間第5主日

第一朗読  イザヤ書 6:1-2a、3-8
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがい(た)。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
「見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。
「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 15:1-11
(兄弟たち、)
《わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。》
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
《わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、》
わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

福音朗読  ルカによる福音書 5:1-11
イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

祈りのヒント
私たちは洗礼を受けている、受けていないに限らず、イエスに出会っているのではないでしょうか。洗礼を受けていない人は、ただそのことに気づかないのかもしれません。たとえば、人から親切な声かけをされて「心が温かくなった」時、病院で看護師の優しい対応で癒やされた時、あるいは心が折れそうな時に話をゆっくり聴いてもらった時など、人によってさまざまですが、そのようなイエスとの出会いは誰でも必ずあることでしょう。時にはイエスとの出会いが、その人にとって人生を決める大きなきっかけになるのかもしれません。
きょうのみことばは、最初の弟子たちの召命の場面です。イエスは、ゲネサレト湖の岸辺にあったシモンの舟に乗り、群衆に教えられた後、彼に「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。シモンは、「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。彼らは、漁師ですから漁に関してはベテランです。おまけに、全く魚がとれず、仕方なく舟から上がって1日の仕事を終えようとしていた時に、素人のイエスに「網を降ろして、漁をしなさい」と言われたのです。
普通ですと、「何を言っているのだろう」と思うところでしょうが、シモンは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ってその通りにします。そうすると、網が裂けそうになるほどのおびただしい魚がかかったのです。シモンの心の中で「この方は何者だろうか」という畏れに近い不思議な感じを受けたのではないでしょうか。そして、イエスの足元にひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言います。シモン・ペトロは、この時初めてイエスの偉大さ、神々しさに触れ、自分の漁師というプライド、エゴが打ち砕かれたのではないでしょうか。
イエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と彼らに言われます。その声を聞いた彼らは、一切を捨ててイエスに従いました。私たちにもイエスは、「恐れることはない……」と呼びかけられているのではないでしょうか。ペトロたちが、自分のプライドもエゴまで一切を捨ててイエスに従ったように、私たちも一切を捨ててイエスと共に歩むことができたらいいですね。
(日曜日のみことば 2022-02-06)

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