2月7日 年間第5主日

第一朗読  ヨブ記 7:1-4、6-7
(ヨブは言った。)この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。
傭兵のように日々を送らなければならない。奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ
傭兵のように報酬を待ち望む。そうだわたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。
労苦の夜々が定められた報酬。横たわればいつ起き上がれるのかと思い
夜の長さに倦み いらだって夜明けを待つ。わたしの一生は機の梭よりも速く 望みもないままに過ぎ去る。
忘れないでください
わたしの命は風にすぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。

第二朗読  一  コリントの信徒への手紙  9:16-19、22-23
(皆さん、)わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

福音朗読  マルコによる福音書 1:29-39
(そのとき、イエスは)会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

祈りのヒント
 私たちがインターネットで何か商品を検索したり、またその商品を購入したりすると、それと関連したものが、宣伝として何度も出てきます。また、「この商品を購入した人は、◯◯も購入しています」という画像も出てきます。インターネットでは、このように何度も商品を宣伝し私たちが再び商品を購入するように促しています。
この【宣伝】という漢字を2つに分けると、「宣べる」と「伝える」となります。イエスは、きょうのみことばで「一緒に近くのほかの町や村に行こう。わたしはそこでも宣べ伝え(共同訳聖書では「宣教」と訳されている)なければならない。わたしはそのために出て来たのである。」と言われます。では、イエスは、何を宣べ伝えられたのでしょう。
イエスは安息日に会堂で悪霊に憑かれた人を癒した後に、シモンとアンデレの家に行きます。そこでも、イエスは、シモンの姑が熱を出しているのを癒やされます。イエスの評判は、ますます広がったのでしょう。安息日が終わり夕方になると人々は、病人や悪霊に憑かれた者をみな、イエスのもとに連れてきます。シモンの家の戸口には、町中の人でいっぱいになりますが、イエスは彼らをも癒やされます。人々は、その日だけではなくその翌日にもイエスを捜して癒して頂こうとするのです。
人々は、イエスが今までの預言者とは違う何かを持っているということを感じていたのでしょうし、また、自分たちの苦しみ、弱さをイエスによって解放してほしいと願っていたのではないでしょうか。このように考えますと、イエスの奇跡は、イエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・14)と宣べ伝えられたことを、人々の目に見える【しるし】となったのではないでしょうか。
洗礼の恵みを頂いた私たちは、きょうのみことばでイエスが人々を癒したように、私たちも繰り返し周りの人に、【福音】を宣べ伝えることができたらいいですね。
(日曜日のみことば B年 2021-02-07)

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