3月10日 四旬節第1主日

第一朗読  申命記 26:4-10
(モーセは民に言った。)祭司はあなたの手から(初物を入れた)籠を受け取って、あなたの神、主の祭壇の前に供える。
あなたはあなたの神、主の前で次のように告白しなさい。
「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」
あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し(なさい。)」

第二朗読  ローマの信徒への手紙 10:8-13
(皆さん、聖書には)何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

福音朗読  ルカによる福音書 4:1-13
(そのとき、)イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

祈りのヒント
今日の福音で、ルカは、イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、「荒れ野の中を“霊”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた」と語っています。

荒れ野の中で悪魔から40日間誘惑を受けるイエスの姿を思いめぐらしていると、イエスの歩まれた道は本当に生半可でないと感じます。しかし同時に、この40日の体験が、後のイエスの歩み・使命、十字架上でのご受難とご死去・そして復活を生きるための、とても大事な準備の時、あるいは原点なのだと感じます。今日の福音の終わりに、ルカが「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と語っているように、イエスに対する悪魔の誘惑は壮絶だったと感じます。しかし、イエスが洗礼を受けた時の恵み、天の御父と聖霊から受けた恵みは、決して決してイエスから離れません。イエスを満たし続けています。

御父と聖霊との深い交わりの中に居続けられるイエスがさまざまな誘惑を悪魔から受けられる・・このイエスの姿から、主と共に歩む者にとって、大事なことは何かを感じ取り、学び、それを自分のものとして歩んでいくようにと、私たちはイエスに願われていると感じます。

悪魔は、イエスが「神の子」であると分かっていて、「神の子なら・・・」とイエスに語っています。では、自分にとって「神の子」であるとは、どういうことなのでしょう。

悪魔が言っているように、「石をパンに変える」「国々の一切の権力と繁栄を与えられる」「神殿の屋根の端から飛び降りても守られる」といった、人間の力を遥かに超えた力ある神の姿に自分も近づく・・・そのような魅力に引き寄せられ、望み、全能の神に似たものとなるということが、神の子になるという事なのでしょうか?悪魔に対するイエスの姿ははっきりしています。神の子であるとは、そのようなことではないと。

悪魔に対面するイエスの姿を見つめていると、悪魔が生きている世界と、イエスの生きる世界とはとても違っていると気付きます。イエスの姿は、完全に“御父と聖霊との愛の交わり”に生き、それによって支えられています。それしかない、というか、それにいのちを賭けて生きている、三位一体の交わりに信頼し生きている姿です。イエスにとって、神の子であるとは、神は御父でイエスは御父に愛された子であるということ、それ以外には何もいらないのです。そして、イエスは、神である御父をとっても愛しているということ。それが、イエスにとって、神の子という事なのです。聖霊に満たされ御父との愛と信頼の世界に生きる姿を、イエスはこの荒れ野での悪魔からの誘惑のさなかに、私たちに示してくださっています。このイエスに満ち溢れている恵みに、わたしたちも繋がって歩んでいく恵みを頂けますように。

私たちが御父とイエスと聖霊の愛の交わりに目を注ぎ続けている限り、三位の神は私たちに目を注ぎ、神の望まれる道へ導いて下さるに違いありません。

(日曜日のみことば 2019-03-10)

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