3月10日 四旬節第2火曜日

第一朗読  イザヤ書 1:10、16-20
ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よわたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
(お前たちの手)洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守りやもめの訴えを弁護せよ。
論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる。お前たちが進んで従うなら大地の実りを食べることができる。かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。

福音朗読  マタイによる福音書 23:1-12
(そのとき、)イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

祈りのヒント
日常生活のふとした時に自分の本心が垣間見える時があります。自分が何を中心にして生きようとしているのか、また何を大事にして生きようとしているのか、その本心が見える時があります。
人から褒められたい、認められたいという見栄はなかなかなくなりません。むしろ意識していないとそれを求めている自分がいたりして、驚きます。有言実行は難しく、有言不実行の自分の姿ばかり見えます。自分で何とかしようとするのではなく、やはりここは自分の信じているお方の力にすがるしかないのでしょう。
そのためにはイエスの生き方をまねすることが一番の方法かもしれません。
(毎日のみことば 2020-03-10)

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