3月18日 四旬節第3土曜日

第一朗読  ホセア書 6:1-6
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」
エフライムよわたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。
お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。
それゆえ、わたしは彼らを 預言者たちによって切り倒し わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。

福音朗読  ルカによる福音書 18:9-14
(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

祈りのヒント
ファリサイ派の人が見つめているのは、他人と比較した自分の姿。
比較し優劣を評価するのは今の社会も同じだが、愛のない立派さを、神は義とされない。
徴税人は、罪の重荷に失望しそうな無力な自分をそのまま置いて、神に委ね、憐れみだけを願っている。
神は祈りに応え、不義を義として罪から解放し、彼を高めてくださった。
欠けや弱さを赦してくださる神の恵みのうちに、本来のわたしが生きる道が見えてくる。
(毎日のみことば 2023-03-18)

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