3月21日 四旬節第5主日

第一朗読  エレミヤ書 31:31-34
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

第二朗読  ヘブライ人への手紙 5:7-9
キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり(ました。)

福音朗読  ヨハネによる福音書 12:20-33
さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

祈りのヒント
 ひとつぶの麦が死ねば、多くの実を結ぶ。相手にすべてを与えることで、相手を活かすことができます。愛ゆえのいのちの捧げ尽くしの姿。イエス・キリストは御父からつかわされた者として、相手を活かすことに集中しています。御父の望みが、愛ゆえのいのちの捧げ尽くしだからです。
歴史上の数多くの殉教者たちは、まさに一粒の麦として地域に埋もれ、新たな芽が生ずるための土壌となりました。古代から現代に至る歴史の流れのなかで、世界各地で殉教者の遺徳をしのび、取り次ぎを求める祈りが繰り返されています。殉教者たちは、キリストの死をまねていました。相手を活かすという目的のために自分のいのちを捧げたのです。ということは、キリストにならう究極的な姿が殉教であったわけです。「相手を活かす」ことに殉教の眼目があることになります。相手に対する愛のゆえに、自分のいのちを捧げ尽くしても決して悔いはないという熱烈な想いを、私たちも受け継ぐことができればよいかとおもいます。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。これは、第二朗読のヘブライ書で言われているメッセージです。神としての自分の身分にこだわらずに、相手のほうへと出向いてゆく謙虚さ、つまりへりくだりの姿勢がキリストの特長です。フィリピの信徒への手紙2・6-7で述べられていることと同じ内容のメッセージがヘブライ書でも繰り返されています。初代教会の信仰共同体の信仰生活においてはキリストのへりくだりが重視されており、その重点の置きかたヨハネ福音書における一粒の種の話題とも共通性があることが結論づけられます。こうして見てくると、パウロもヨハネも同じ核心を語っているという事実が理解できます。神は御子をとおして全世界のあらゆる人を愛そうとして前進されるのです。

神は相手の悪をゆるします。これは、第一朗読のエレミヤ書に描かれている呼びかけを要約したものです。神は相手に対して常に再出発のチャンスを約束してくれます。相手の落ち度や悪意さえもつつみこんで、回心するきっかけを与える神の寛大さそのものが神の姿を示しています。寛大な心で相手を抱擁する神が確かにおられるというメッセージを告げたのが預言者エレミヤでした。
殉教者たちが、迫害者たちに対しても神の寛大な慈愛を告げ知らせようとして自分のいのちを差し出したことは、身をもって神の愛をあかしする姿でした。殉教とあかしとは欧米の言語では同じ一つの言葉ですが、それはまさに古代から現代に至るまでのあらゆる時代の殉教者が神の愛のあかしびとでもあることを如実に示しています。

(日曜日のみことば 2021-03-21)

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