日曜日のみことば
3月22日 四旬節第5主日

第一朗読 エゼキエルの預言 37:12-14
主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。
第二朗読 ローマの教会への手紙 8:8-11
(皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
福音朗読 ヨハネによる福音 11:3-7、17、20-27、33b-45 短い形
(その時、ラザロの)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
| 祈りのヒント |
| イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と全ての人に問われます。今日の御言葉の中には「信じる」ということばが8回もでてきます。私にはイエスが受難と死を前にして、弟子たちやマルタ、マリア、ユダヤ人たちに対して『まだわかってくれないのか』と悲しんでおられるように観えます。また私自身も、「わたしは復活であり、命である」という真理を悟り、その中で生きていると、自信をもって言えないのです。イエスに「この真理に触れさせてください」と願い、この御言葉を祈りました。すると突然、60年以上前の出来事の場面が心に浮かんできました。それは、私が3歳か4歳の頃、父方の祖母が葬られる場面でした。その頃は土葬で、深い穴の中に祖母の棺がロープで暗い穴の中につり降ろされる場面でした。幼い私がこの衝撃的な光景を見、今も記憶の中にあること、しかも何より恐怖が残っていないことに驚きました。 祖母がどんな人であったかは、その後周囲の人たちから聞きました。実母とうまくいっていなかった母からは、祖母からとても優しくしてもらったことを繰り返し聞きました。親戚が集まると、祖母が4人の息子を戦地に送った後、いろりばたで息子たちの無事を願い、いつもロザリオの祈りをしていたこと、だから4人無事に帰ってきたのだという話をよく聞かされました。父の左耳の上には、銃弾がかすめ通った跡で、髪の毛がはえなくなったところがありました。その跡を見ると、祈りって何?命はどこから来るの?復活って?信仰って?等々という「神を知りたい」という望みが私の内からわいていました。 私は祖母の顔も声も覚えていません。しかし私が生まれた時、喜んで私を抱いてくれ、いつくしみと愛を私に注ぎ、命への感謝を神に祈ったことは確かなことだと思います。肉として生きた祖母は確かに死に、深い穴の中に葬られました。しかしキリストに結ばれ、霊によって生き、復活した祖母は、私に「わたしは復活であり、命である」という真理に触れさせてくれたのだと、気づきました。 |
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| (日曜日のみことば 2026-03-22) |

