3月24日 受難の主日(枝の主日)

第一朗読  イザヤ書 50:4-7
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え疲れた人を励ますように

言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。

第二朗読  フィリピの教会への手紙 2:6-11
(イエス・)キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

福音朗読  マルコによる福音書 15:1-39、
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに問した。
「お前がユダヤ人の王なのか」
イエスは、答えられた。
「それは、あなたが言っていることです。」
そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。
「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、言った。
「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」
祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、言った。
「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」
群衆はまた叫んだ。
「十字架につけろ。」
ピラトは言った。
「いったいどんな悪事を働いたというのか。」
群衆はますます激しく叫びたてた。
「十字架につけろ。」
ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
「ユダヤ人の王、万歳」
と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、
その服を分け合った、
だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。
「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、
「そら、エリヤを呼んでいる」
と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、
「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」
と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。
「本当に、この人は神の子だった。」

祈りのヒント
今日の福音で一番心に残ったのは、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」というみ言葉です。「なぜ百人隊長はイエスが神の子だったと確信できたのだろう」と心にひっかかりました。私はこのみ言葉を、百人隊長のようにイエスの方を向いてそばに立ち、イエスがこのように息を引き取られたのを眺めながら、思い巡らし、祈ることにしました。
このみ言葉を数回読んでまず感じたことは、ここに登場する人たちの姿は三種類あるのではないか、ということです。祭司長たちの悪の力が人々を巻き込み、大きな罪となっていく有様、公正な裁判を行うはずだったピラトが罪を犯す有様。そして外の悪の力や騒々しさ、身体の苦痛の世界とはまったく違う、御父への信頼の内に深い沈黙の中におられるイエスの在り方です。
ピラトは「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだとか分かっていたからである」とあります。ねたみは、嬉しい、悲しい、怖いなど、あるきっかけで湧き上がる感情です。誰でも生活の中で体験します。私たちは特にねたみなどネガティブな感情が湧き上がってきたとき、「イエスの方を向き、そばに立って」その感情を振り返り、神が私に何を語っておられるのか、「イエスがこのように息を引き取られた」ことと、どのようにつながっているのかも祈ってみる必要があるのではないでしょうか。わたしには、祭司長たちのねたみは祈りを通さず外に出て、集まり、様々な罪になっていったように見えました。
「イエスはもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った」とあります。わたしは「不思議な」感覚は神がすぐそばにいらっしゃるときに感じるような気がします。このかすかな感覚も、感情への祈りと同じように祈っていきたいと願っています。ピラトはせっかくの神からのメッセージを祈らず、罪を犯してしまったのではないでしょうか。
この百人隊長の姿は、今を生きる神を信じきれない弱い私たちが、どのように祈れば良いのかを教えてくれているようです。
(日曜日のみことば 2024-03-24)

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