3月26日 四旬節第3土曜日

第一朗読  ホセア書 6:1-6
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
二日の後、主は我々を生かし 三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように 大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」
エフライムよわたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを 預言者たちによって切り倒し わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。

福音朗読  ルカによる福音書 18:9-14
(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

祈りのヒント
自分は正しい人とうぬぼれなければ、他人を見下すことはないと思う。教会に通い、ミサに集い、奉仕をする、そんな自分を誇らしく思うことはないと思う。何度祈ろうと、何度告解をしようと、変わることのできない自分を思いながら、こんな私ですが、お赦しくださいと祈る。そんな自分を、見ておられる神がいる。
神よ、あなたに立ち帰る恵みをお与えください。
(毎日のみことば 2022-03-26)

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