3月26日 四旬節第5主日

第一朗読  エゼキエル書 37:12-14
主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:8-11
(皆さん、)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

福音朗読  ヨハネによる福音書 11:3-7、17、20-27、33b-45
(そのとき、ラザロの)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

祈りのヒント
この箇所を読むと、「わたしは復活であり、命である」ということを全ての人が悟り、信じるために御父と共に働かれる、死を前にしたイエスの憐れみ深いお姿と、ある次元でしかイエスを信じていない人々の姿が見えてきます。そして、イエスは今を生きる私にも「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われます。そう問われて私は、この聖書の中の、迫害を恐れて神の呼びかけに応えられない弟子たちや、応えたものの、後で自分の思いを優先させてしまうトマス、また古い教えや習慣に留まっている人々……それぞれに似た私がいることに気がつきました。何度も何度も今日のみ言葉を読み、祈り、イエスに私のありのままの姿、気持ちを話しました。
すると、マルタが21節で、マリアは32節で「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と二人が同じことを言っているのが、とても気になりはじめました。「ここに」というのは、「私の内」のことで、私の内におられる神を信じるとき、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」というみ言葉が現実になるのではないか。私が私の内におられる主イエス・キリストから離れたとき、「夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」という状態になってしまうのではないか……と、いろいろなことに気づきました。イエスはこのみ言葉を通して、私に応えてくださったと感じます。
主イエス・キリストとつながっていれば、肉体は死んでも霊魂は生き続けることができる。生きていて主イエス・キリストとつながっていれば、決して死ぬことはない。そのことを信じて毎日を生きたい、と希望がわいてきました。しかし、私は弱い人間です。そう生きていけるように、と神の恵みを願いました。
毎日の生活の中で、私の内に、また他の人々の内におられる主イエス・キリストと、聖霊の導きによってつながり、信じるとき、そこにはすでに永遠の命があるのではないでしょうか。
(日曜日のみことば 2023-03-26)

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