3月28日 受難の主日(枝の主日)

第一朗読  イザヤ書 50:4-7
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし  弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 2:6-11
(イエス・)キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

福音朗読  マルコによる福音書 15:1-39、△14:1-15:47
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに問した。「お前がユダヤ人の王なのか」
イエスは、答えられた。「それは、あなたが言っていることです。」
そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。
「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、言った。「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」
祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、言った。
「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」
群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」
群衆はますます激しく叫びたてた。「十字架につけろ。」
ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」
と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、
だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。
「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。
「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」
一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。
すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。
「本当に、この人は神の子だった。」

祈りのヒント
 「人となられた神」は、極刑による死を引き受けることで、私たち人間への愛と、ご自分を世に送られた父である神への愛を示されました。その無残な死は、父である神がその犠牲を望まれたという意味では決してなく、当時のユダヤ社会で神の愛を100%生きようとするならば避けることのできない結末だったのだと思います。
イエスは、時の権力者たちに疎まれて、御自分の死が現実的なものになって迫って来ても、その生き方を変えることはなさいませんでした。今日の福音が伝えるイエスは、最愛の弟子たちからも見捨てられてただ一人理不尽な裁きの暗黒の波に飲まれる運命を、粛々と受け入れているように見えます。何ものにも阻まれることなく、最後までひとすじに神の愛を貫くイエス。死の直前の「なぜわたしをお見捨てになったのですか」という絶望の叫びも、神から心を離すことなく、最後の力を振り絞って、神に向かって放たれます。それは彼が慣れ親しんでいたはずの詩篇22の冒頭の句であり、希望と感謝の結末を視野に入れたものだという解釈は、後世の人間の安直な気休めだという反対があるとしても、説得力があると感じます。そこに見えるのは、苦しみと絶望の真っただ中で、なお、神の救いに向けて萎えた心を上げようとしている究極の信仰者の姿です。そして、父である神が、その信仰に対して復活という応えを与えて下さったのは、私たちに伝えられている通りです。それによって、イエス以降、たとえどんなに無残な死でも、単なる「一貫の終り」ではなく、すべての死が永遠のいのちへの「通過点」となったのです。そのことを知り、信じている私たちは、陰惨な十字架像に、父と子の神の限りのない愛を見るのです。
イエスの十字架をめぐる騒ぎと、昨今のいくつかの国の民主化をめぐる騒動の映像が重なります。十字架で死に、復活された主が、愛と正義のために立ち上がる人々と共にいてくださるよう、また、私たちが、それぞれの置かれた場で、ひるむことなく正しいことを貫くことが出来るよう、改めて心から願いたいと思います。
(日曜日のみことば 2021-03-28)

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