3月29日 受難の主日(枝の主日)


第一朗読  イザヤの預言 50:4-7
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるからわたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っているわたしが辱められることはない、と。

第二朗読  フィリピの教会への手紙 2:6-11
(イエス・)キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

福音朗読  マタイによる福音 27:11-54
(そのとき、)イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

祈りのヒント
聖週間がはじまる。
今年の四旬節の自分自身の過ごし方を振り返り、今日からはじまる一週間は過ごしてきた四旬節の集大成であると心に決めよう。「死」という、回避することのできない局面にむかう一週間。それはまさに自分自身の一生が、さあ、いよいよ終わるのだと意識する最期の時にも似ているのではないだろうか。意識がはっきりしていて、だんだんと死にむかう一日、一日。あまり想像したくはないが、それは、誰にでも来る。
先日、ふと、わたしの父親が亡くなる日々を思い起こしていた。
父は認知症などの問題はなかったが、老衰という誰もが迎える死で安らかに亡くなった。しかし、ほんとうに安らかだったのだろうか。口からご飯を食べることもできず、呼吸が苦しそうで、自分の想いを喋ることもできない。こちらからは「お父さん、天国に行くのだから心配しないで、大丈夫よ」と語りかけるが、わたしの話をどのように受け止めていたのか、結局は誰にもわからなかった。
人は誰でも皆、それぞれが死にむかっているが、そのむかい方は明らかに、皆、ひとりで行くという共通点がある。さっき、今日の受難の日の福音を、ひとりで声に出して朗読してみたが、イエスもまさに、ひとりっきりで死へとむかっていったことが分かる。登場人物はたくさんいて、そのひとりひとりはいろんなことを言ったり、いろんな態度をとったりする。しかし、イエスは、ひとり、何を考えていたのだろうか、沈黙している。
総督ピラトは、祭りの機会を利用し、囚人を釈放することにした。その名は、バラバ・イエス。いつものミサでは群衆の役で「バラバを!(解放せよ)」、「(イエスを)十字架につけろ」と叫ぶ、あの箇所だ。今回、気になって「バラバ」の名の由来を調べてみた。二つの説があり、一つはbar-abba(父の息子)、もう一つはbar-rabban(先生の子)。もし、一つめの説明を取るなら、バラバ・イエスは、「父の息子・イエス」となる。ある
意味では、囚人もイエスも同じような名前だったのだ。それはそうだ、誰もが、父の息子であり、父の娘なのだ。人間、だれひとりとして例外はない。例外なく、いつか死ぬし、例外なく、父の子なのである。
問題は、総督ピラトであり、群衆であり、長老、祭司長である。この人たちの態度はあまりにも死から遠く、別の世界にいる。いや、「死」どころか、「生」からも遠いのでは
ないか。人は死にむかうが死んではいない。生きているこの間に、語ってくれと問いかけることはできるだろう。イエスは何も答えず、黙っていた。だとしたら、黙っているこの人の沈黙の中に、わたしも入っていくことができるだろう。やはり、四旬節をどう過ごしてきたか?ということだけでも振り返りたい。いつか、自分の生涯全部を振り返り沈黙の時間を生きる、その練習として。
(日曜日のみことば 2026-03-29)

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