3月3日 年間第8主日

第一朗読  シラ書(集会の書) 27:4-7
ふるいを揺さぶると滓が残るように、人間も話をすると欠点が現れてくるものだ。陶工の器が、かまどの火で吟味されるように、人間は論議によって試される。樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、心の思いは話を聞けば分かる。話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。言葉こそ人を判断する試金石であるからだ。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 15:54-58
(皆さん、)この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

福音朗読  ルカによる福音書 6:39-45
(そのとき、イエスは弟子たちに)たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

祈りのヒント
 ある集いで、「私のポジティブなところ、ネガティブなところはなんですか」というテーマで分かち合う機会がありました。

意外と、ポジティブなところはすぐに思い浮かべることはできるのですが、ネガティブなところは思い浮かべるのに時間がかかり、ポジティブなところに比べると数も少ないのです。この時私は、ネガティブなところは自分でも気がつきにくいものなのだな、と思いました。

今日のみことばの中でイエスは、「なぜ、あなたの目にある丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ずに、どうして、兄弟に向かって、『兄弟よ、あなたの目にあるおが屑を取り除かせてくれ』といえるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除きなさい。」と人々に伝えます。

イエスのこのみことばをどのように感じることができるでしょう。イエスが人々に伝えているこの内容は、今の私たちの生活にも結びつけることができるのではないでしょうか。往々にして、私たちは人の欠点はよく見えますが、自分の欠点は見えにくいものです。

しかし、ここでもう一つ踏み込んでみてみると、イエスは「自分の目にある丸太に気づくということが大切ですよ」と私たちに気づいて欲しいと思っているのではないでしょうか。それは、自分のありのままの姿を感じ、気づくことを意味しています。ただ、それだけでいいのです。

人は、自分の体と心の弱いところ、辛いところに気づくこととき、相手に対しても優しくなれるのではないでしょうか。イエスが言われる「まず自分の目から丸太を取り除きなさい。」とことは、自分の欠点を裁くのではなく、その欠点を受け入れるということなのかもしれません。

自分の欠点を受け入れるとき、相手の欠点も受け入れることができます。そこに【ゆるし】が生まれ、【愛】で満たされ、【喜び】で溢れます。今まで、気づかなかったその人の「良いところ」も見えてきます。

自分の目にある【丸太】を受け入れることは易しいことではありません。ですから、イエスに「私の丸太に気づかせ、受け入れることができますように」と祈ることができたらいいですね。

(日曜日のみことば 2019-03-03)

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