3月31日 四旬節第4主日

第一朗読  ヨシュア記 5:9a、10-12
(その日、)主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた」
イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 二 5:17-21
(皆さん、)キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

福音朗読  ルカによる福音書 15:1-3、11-32
(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

祈りのヒント
冬から春へと季節の変わる時、四旬節もいよいよ中間地点となります。

四十日という長い試みの日々に、《わたし》はどのように神さまと人びとからの愛を受け取っているか、受け取っていないか…… そして、絶え間なく与えられているその愛に気づいているか、気づいていないか…… あるいは、もしかしたら、拒否しているか、というところまで、今日は振り返ってみたいと思います。

わたしたちの《振り返り》は、自分のおへそをじーっと眺めているような振り返りではありません。そうではなくて、神さまの消えることのないみ顔の光を、イエス・キリストの温かなからだの体温を感じとることです。自分自身をダメな人間だとか、生きている意味があるのかとか、そんなことを反省する振り返りではありません。神さまのみ顔を見て、真の人であるイエスにじかに触れることです。

今日の《主日のみことば》は、抽象的な哲学の話ではありません。ある意味で、祈りの実践書です。とてもわかりやすく、あなたの祈りの身体の状態がどのようになっているか、あるがままを教えてくれます。天の父に対して、わたしたちはどちらかでしかないのです。

父の大きなふところめがけて帰っていく脆い弟。
あるいは、父のすぐそばにいるのに大きな愛を受け入れられない強い兄。

イエスは、ご自分の人生を《愛する人間》として最後まで徹底的に生きられたと、わたしたちは言います。けれども、考えてみましょう。十字架の時、ボロボロの雑巾のようになった彼のことを、皆、見捨てたのです。イエス自身が天の父の懐にひとり、抱きしめられることを知っておられたのではないでしょうか。

四旬節の試みの日々はまだ中間地点。今日の祈りが新しい一歩になりますように。

(日曜日のみことば 2019-03-31)

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