3月31日 復活の主日 復活の聖なる徹夜祭

参考:第一朗読・創世記1:1~2:2, 第二朗読・創世記22:1-18

第三朗読  出エジプト記 14:15-15:1a
(その日、追い迫るエジプト軍を見て、イスラエルの人々が非常に恐れたとき、)主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
モーセとイスラエルの民は主を賛美して歌をうたった。

参考:第四朗読・イザヤ54:5-14, 第五朗読・イザヤ55:1-11, 第六朗読・バルク3:9-15,32~4:4 第七朗読・エゼキエル36:16-17a,18-28

使徒書の朗読 ローマの信徒への手紙 6:3-11
(皆さん、)あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

福音朗読  マルコによる福音書 16:1-7
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」

祈りのヒント
イエス・キリストの死と復活。
洗礼を受けてからずっと、自分の生き方の土台を築き、指針となってきたこの言葉。この不思議な言葉に魅せられたのか、包まれたのか……どんな素晴らしい神学的な説明を聴いたとしても、けっして納得することはできない。ただ、この言葉のもつ不思議な力だけで十分だと思えてしまう。この言葉が神話のような作り話の言葉なのではなく、実際にそれが出来事として生起し、それを見て、触れ、自分の生き方が変わってしまった人びとが存在し、その人びとが命をかけて語り継いだ、その経験の連続性がこのわたし自身にまで及んでいる、それが分かる、それを感じる、それを祈ることができる…… イエス・キリストの死と復活。今日は、洗礼を受けたキリスト者ひとりひとりが、自分にとっての死と復活が何を意味するのだろうかと問いかけたらいいと思う。
マルコの福音16章の冒頭、週の初めの日の朝早く、朝日を浴びて女たちは墓の前にいる。
墓、死者の埋葬される場所だ。遺体が安置されているはず。十字架の仕打ちで傷ついたイエスの亡骸が横たわっているはず。苦しみと痛みのどん底で死んでいったあの人、イエスのそばにいたい。
しかし、墓の石は取り除けられ、中にイエスの遺体はない。イエスの身体に油を塗るために買った香料は彼女たちの手の中で行き場をなくしている。白く長い衣を着た若者は誰? その存在を聖霊という学者もいれば、驚いたあまりの彼女たちの見た共同幻想だと言う人もいる。福音書としては最も古いとされるマルコの書を原典とするならば、重要な意味があるはずだ。人の身長ほどもある大きな墓石を動かすことができるのは、不思議な力に違いない…… さまざまな説が積み上げられる。しかし、何度そういう説明を聴いてみても、イエスがどうして墓からいなくなったのか? 墓が空だったのはなぜか? といった謎に縛られるばかりで、答えられないことに苛立ちを感じることもある。
そうだとしても、ここで、死は、圧倒的なメッセージを人びとに投げかける。誰も死を回避することはできないのだ、というメッセージ。イエスはヒーロー、皆がすごいと言っていた。イエスとともに、永遠の命に生きると。けれども、彼は死んだ。すべての人間と同じように。
やはり、イエスのからだを受け、その死をわたし自身も身にまとうことが必要のようだ。わたしも彼と同じように人間としてある日、死ぬ。だから、生物的な死を待つまでもなく、復活の主日の今日、イエスの死を身にまとい、神からの働きの源泉、湧き起こるような恵みの泉に浴し、祈らなければならないのではないだろうか。それが今日すべきことだろう。
「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる。」
あの日、墓のまわりの女たちが理解できなかったこの意味を、二千年後に生きるわたしたちは理解できるはずだ。イエスの後の世の先人やこの罪深いわたしのために、イエスは死んで、復活されたのだから。わたしたちの心を燃やし、生きる力を与え続け、ずっと、ともにいてくださるのだから。あの日の彼女たちにイエスとともに生きているわたしたちの証しを伝えてみよう、今日の復活の日に。
(毎日のみことば 2024-03-31)

ページ上部へ戻る