4月21日 復活節第4主日

第一朗読  使徒言行録 4:8-12
そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』
です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

第二朗読  ヨハネの手紙 一 3:1-2
(愛する皆さん、)御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

福音朗読  ヨハネによる福音書 10:11-18
(そのとき、イエスは言われた。)「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

祈りのヒント
イエス・キリストは人びとに対して御自分のことを「良い羊飼い」として説明します。そしてイエス・キリストは「わたしは羊のために命を捨てる」とも述べています。つまり、イエス・キリストは、いのちがけであらゆる人を導いており、いざというときは御自分のいのちを捧げてまでも守り抜く覚悟をもって生きているのです。愛情をこめて、相手との信頼関係を深めようと必死の覚悟で、いのちをかけるイエス・キリストの姿勢は、御父である神による人間への愛情と信頼を明確に示しています。

これほどまでに責任感のある導き方を実行できるイエス・キリストの愛情深さは、ひとえに御父である神に由来しています。そのことは使徒ヨハネの手紙が明確に教えてくれています。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」というよびかけの文章からわかります。御父からまかされたからこそ、独り子のイエス・キリストは責任を明確に果たすだけの力の込め方を日々実行に移せるのでしょう。

あらゆる人は迷いつづける羊のように、頼りなげに日々を生きています。すぐに迷子になって危険な状況におちいる羊の弱さは、まさに愚かな人間の現実を見事に示しています。そのような不安定さのなかで絶えず困惑しているわたしたちに対して、いかなるときも、最後まで見棄てることなく徹底的に付き合ってくださるのがイエス・キリストです。そのことを使徒言行録がペトロの説教を記録することで伝えています。「ほかのだれによっても、救いは得られません」というペトロの確信に満ちた叫びは、イエス・キリストの徹底的な責任感を主張するためにあげられたものです。誰もがわたしを見棄てたとしても、イエス・キリストただおひとりだけは決してわたしを見棄てない、という確信を、ペトロは教会共同体の代表者として、何としても強調しておきたかったのです。

ペトロの叫びは、後世において「唯一の救い主イエス・キリスト」という教えの表現(教義)に結実します。
ほかの誰もがわたしを見棄てたとしても、イエス・キリストただおひとりだけは決してわたしを見棄てない、という信仰者の確信が「唯一の救い主」というキーワードに集約されることとなったのです。わたしたちは、果たしてイエス・キリストと親しくなっているでしょうか。いのちがけでわたしの将来に責任をもって付き合ってくださる導き手に、明確に感謝して応えているでしょうか。イエス・キリストと信頼を深めて交流する日々を積み重ねるときに、ペトロのように叫ぶことができるようになります。ペトロもまた過去においては弱い人間の愚かさにおちいっていましたが、それでもイエス・キリストから決して見棄てられなかったのでした。その経験が、ペトロを強い信念をいだく真の信仰者へと成熟させたのです。

(日曜日のみことば 2024-04-21)

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