4月24日 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

第一朗読  使徒言行録 5:12-16
使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

第二朗読  ヨハネの黙示録 1:9-11a、12-13、17-19
わたし(ヨハネ)は、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっている(者)である。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、(アジア州にある)の七つの教会に送れ。」
わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。
わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。」

福音朗読  ヨハネによる福音書 20:19-31
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

祈りのヒント
四つの福音書は、最初にイエスの墓に行き、“空の墓”を見つけたのは、女性の弟子たちだったと記す。ナザレのイエスへの愛情が、 マグダラのマリアをはじめ、この人たちをイエスの墓に向かわせた。そこで、神の使いから次のメッセージをいただく。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない(マルコ16:6)。」 “空の墓”を見た証人として、彼女たちはイエスのほかの弟子たちのもとへ走って行き、ありのままの体験を分かち合う(ルカ24:9-12参照)。今日の福音書に出てくる、「十二使徒」と呼ばれた男性の弟子たちは、この婦人たちとは対照的に、復活したキリストの出現を最後に受けることになる。しかも、ユダヤ人を恐れ、自分たちの家に閉じこもっていた、その時、その場で。

子供のころから素直ではないわたしは、時々、母親から「不信仰のトマスみたい」と言われたことを思い出す。でも、今日の福音の話を読んで、弟子のトマスは本当にそんなに不信仰だったのかなと思い巡らしている。もし、自分のベスト・フレンドが三日前に殺され、残酷にも十字架上で亡くなったなら、仲間たちが「あなたのベスト・フレンドは生きているんだよ」と言っても、すぐ素直に信じられるだろうか?

特にトマスのように、先生としてイエスを尊敬し、彼を愛していれば、安っぽい慰めのような仲間の言葉を信じたくなかっただろう。それは不信仰というよりも、イエスとの深い愛情の絆を示していると思う。信じられないというトマスの心が痛いほど、わたしの胸を打つ。師であり、ベスト・フレンドでもあるイエスが亡くなったという“損”が、トマスにとってあまりにも大きく、重かったので、その死を真剣に受け止めざるを得なかったのだ。

「十二使徒」はユダヤ人を恐れて閉じこもり、自分たちの家から出られなかった。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。復活したキリストが、ご自分の手とわき腹の傷跡を見せてくれ、シャロームの平和の言葉を弟子たちに語りかける。

さて、八日目の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた時に、復活したイエスが再び来て、真ん中に立つ。イエスはもう一度「不信仰のトマス」のために来られる! 復活したイエスはご自分の手とわき腹の傷跡を見せて、平和は安っぽいものではなく、受難と十字架を通してもたらされるものであることを示す。

トマスとの再会を通して、主はわたしたちにも呼びかけられる。「これからは、信じない者ではなく、信じる者になりなさい。わたしのゆるしと平和の証人になりなさい。」

(日曜日のみことば 2022-04-24)

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