日曜日のみことば
4月28日 復活節第5主日
第一朗読 使徒言行録 9:26-31
(その日、)サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
第二朗読 ヨハネの手紙 一 3:18-24
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。
福音朗読 ヨハネによる福音書 15:1-8
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
祈りのヒント |
「わたしはまことのぶどうの木である」 ヨハネ福音書には「わたしは……である」という表現がいくつか記されている。それは、どれもイエスの本質的身分に触れる。父なる神とイエスのつながりは枝とのつながりの原点である。つながりの目的は “実を結ぶ” ことである。だから、手入れをすることは大切である。原文では、「剪定する、刈り込む」と「清くなる」は同じ言葉が使われている。 大きな手術の後に、人の体には管がいっぱいつけられている。栄養摂取や、点滴、痛みどめ、酸素の管もある。その管が一つでも外れてしまえば、命の危険にさらされる。まさに、ライフラインと言える。 “つながり・関わり・きずな” 人生の最も大事な宝物。新しい命はいつもつながっていることで始まる。ママとパパとのつながり。赤ん坊は胎内でママとつながっている。母親と赤ん坊のつながりは子供のライフライン、生命線である。その深いつながり・きずなのお蔭で、私もあなたも、今日までのライフラインができた。 新約聖書の場合は、ぶどうの木のイメージは新しいイスラエルの頭、イエスに当てはめられ、ぶどう園は神の新しい民 (教会) に適応される。今日のヨハネ15・1-7のメインテーマはぶどうの木 (イエス)と枝 (弟子たち)やぶどうの木(イエス)と農夫(父なる神)の親密なつながりである。 “つながり”・“きずな” と言えば、固定したものではなく、成長する、深まる、実を結ばせるものであり、それは農夫である神の喜び・生き甲斐 (善いプライド)、ぶどうの木と枝の利益になる。その条件はつながっていることであり、神の恵み、私たちの信仰のライフラインである。 「イエスにつながる」とはイエスのことばによって生かされ(信じる)、実を結び、イエスのアガペの掟を実践することにある。実を結ばなければ、イエスとのつながりはなくなり、農夫である父によってぶどうの木から取り除かれる。イエスとのつながりをもって、イエスのことばにとどまるならば、すべての祈りと願いもイエスの父である神に通じるようになり、父に栄光を帰することになる。 |
(日曜日のみことば 2024-04-28) |