4月5日 受難の主日(枝の主日)

第一朗読  イザヤ書 50:4-7
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるからわたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っているわたしが辱められることはない、と。

第二朗読  フィリピの信徒への手紙 2:6-11
(イエス・)キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

福音朗読  マタイによる福音書 27:11-54
(そのとき、)イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

祈りのヒント
 楽しい時間は、アッと言う間に過ぎますが、反対に辛くて苦しい時間は、永遠に続くように長く感じます。イエスにとってこの1日は、どのくらいの時間と思われたのでしょう。
イエスは、総督ピラトの前に立たされ、「お前はユダヤ人の王か」と尋ねられ、それに対して「それは、あなたが言っていることである」という言葉を最後に十字架にかかって息を引き取られる寸前まで一言も話されず、長い沈黙を守られました。
イエスは、人々からご自分を「ダビデの子にホサンナ」(マタイ21・9)と言ってエルサレムに迎え入れたのにも関わらず、「十字架につけろ」と叫ばれます。イエスは、ローマ兵から赤いマントを着せられ、茨の冠を頭にかぶせられ、「ユダヤ人の王さま、万歳」と言われて、なぶりものにされ、つばを吐きかけられ、頭を葦の棒で打たれても、沈黙を守られます。
十字架につけられたイエスは、人々から頭を振りながら「……もし神の子なら、自分を救ってみろ。」と冒涜の言葉を浴びせられます。彼らがとった「頭を振る」行動は、相手を侮辱する時に使う仕草のようです。彼らの言葉は、悪魔が荒れ野で言った誘惑と重なります。それでもイエスは、沈黙を守られます。
ようやくイエスは、ご自分が息を引き取ると感じられた時「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と長い沈黙を破られ、詩編22の冒頭を唱えられます。この詩編の最後は、「わたしの魂は主のために生き、わたしの子孫は主に仕え、主のことを後の世代に語り伝えるでしょう。彼らは後から生まれてくる民に、主の正しさ、主の業を、告げるでしょう」と終わっています。イエスは、最後までおん父のみ旨を忠実に守られました。イエスは、詩編22を使ってご自分の受難とさらにおん父への賛美と感謝を伝えようとされたのではないでしょうか。
イエスは、最期の【叫び】をどのようなお気持ちで放たれたのでしょう。百人隊長は、「まことに、この人は神の子だ」と言います。イエスの【沈黙】の姿、そして最後の言葉は、異邦人であるローマ人を信じさせるまで響いたのです。
私たちが「自分の十字架」を担っている時、イエスは【沈黙】のうちに私たちと共に十字架を担われているのではないでしょうか。私たちは、イエスが最後までおん父に忠実であったように、私たちもイエスに倣って「私の十字架」を担って歩むことができたらいいですね。
(日曜日のみことば 2020-04-05)

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