4月6日 受難の月曜日

第一朗読  イザヤ書 42:1-7
見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
傷ついた葦を折ることなく
暗くなってゆく灯心を消すことなく
裁きを導き出して、確かなものとする。
暗くなることも、傷つき果てることもない
この地に裁きを置くときまでは。
島々は彼の教えを待ち望む。
主である神はこう言われる。
神は天を創造して、これを広げ
地とそこに生ずるものを繰り広げ
その上に住む人々に息を与え
そこを歩く者に霊を与えられる。
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。
見ることのできない目を開き
捕らわれ人をその枷から
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

福音朗読  ヨハネによる福音書 12:1-11
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

祈りのヒント
聖月曜日の福音書は、主イエスが受難の道に入る前、べタニアでの対照的な二人の話です。
マリアがイエスの足に「高価なナルドの香油」を塗っているのを見たとき、イスカリオテのユダは何を考えていたでしょうか。イエスがこれからどのような受難に直面するか、そのためにイエスが今どのような気持ちでいるかを考える代わりに、お金の使い方について考えていました。一方、マリアは主イエスの足に、その価値や値段などを考えずに、惜しげもなく香油を塗ります。それは主への完全な愛を表現しています。それだけでなく、主イエスを愛しているため、マリアはユダヤ人の女性が公の場で敢えてやらないと思われる行動をとりました。それは『自分の髪でイエスの足をぬぐう』ことです。イエスのために、マリアは自分を低くしました。主イエスへのマリアの愛こそが、主の過越しの神秘、つまり死と復活の神秘にあずかる助けとなります。
マリアは、イエスに最も貴重なもの、すなわち愛を表現しました。ユダはお金というレンズを通して物事を見、しかも愛がないために、マリアが無駄なことをしたと感じたのです。
今日から、あなたはどのような態度で聖週間を過ごすでしょうか。マリアの態度でしょうか。それともユダの態度でしょうか。
(毎日のみことば 2020-04-06)

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