5月30日 三位一体の主日

第一朗読  申命記 4:32-34、39-40
(モーセは民に言った。)あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから果てまで尋ねてみるがよい。これほど大いなることがかつて起こったであろうか。あるいは、そのようなことを聞いたことがあろうか。火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きている、あなたと同じような民があったであろうか。あるいは、あなたたちの神、主がエジプトにおいてあなたの目の前でなさったように、さまざまな試みとしるしと奇跡を行い、戦いと力ある御手と伸ばした御腕と大いなる恐るべき行為をもって、あえて一つの国民を他の国民の中から選び出し、御自身のものとされた神があったであろうか。
あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め、今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、あなたの神、主がとこしえに与えられる土地で長く生きる。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:14-17
(皆さん、)神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

福音朗読  マタイによる福音書 28:16-20
(そのとき、)十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

祈りのヒント
 キリスト教の洗礼を受けていなくても、三位一体という言葉は聞いたことはあるかもしれません。三位——3つの位格、ペルソナ。ペルソナとはパーソン、人格ともいえるので、なにか、モノや動物とは区別され、我々人間とも人格的なコミュニケーションの取れる「誰か」と考えたら良いでしょう。
ペルソナという言葉自体も「顔を持つ」という語源から生まれたことばです。人間だからこそ「顔を持っている」と意識をし、顔と顔を見合わせないこともできれば、顔と顔とを見合わせることもできるのでしょう。お母さんが赤ちゃんを抱く時、赤ちゃんの顔をじーっと見つめます。赤ちゃんも自分の目をお母さんの目に合わせようとします。赤ちゃんがニコッと笑えば、お母さんも笑う。顔と顔を合わせることは人間にとってかけがえのないこと。
父と子と聖霊、この三者が一体であるという感じ——分かち難く一つに結ばれているので一体といいます。かつて、三者の結ばれ方がどのように結ばれるのかという議論もありましたが、最終的には、「父と子と聖霊の交わり」という三位一体の教義に落ち着いていきました。我々の先祖たちが彼ら一人一人の信仰経験から、長年、対話を行い、収束した結果の父なる神と子なるイエスの交わりから発出される聖霊という一体感。この一体感の味わいについて、我々は想像することしかできませんが、実に先ほどのお母さんと赤ちゃんとの関係にも表現したように、目と目を合わせた深くて濃い人格の関係であることは間違いありません。
イエスさまが我々に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃる時には、我々一人一人の目を見つめてくださったことでしょう。
わたしの方からも、この世に生きる顔を持つ誰かに向かって「あなたと共にいます」と伝えたい。聖霊の発出の息吹を受けて。
(日曜日のみことば 2021-05-30)

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