6月15日 三位一体の主日

第一朗読  箴言 8:22-31
(神の知恵は語る。)「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた 深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったがわたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵もまだ造られていなかった。わたしはそこにいた 主が天をその位置に備え深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき。御もとにあって、わたしは巧みな者となり日々、主を楽しませる者となって絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ。

第二朗読  ローマの教会への手紙 5:1-5
(皆さん、)わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

福音朗読  ヨハネによる福音 16:12-15
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

祈りのヒント
御父から遣わされた御子イエス・キリストによる地上での活躍の意味を弟子たちにわからせるのは聖霊です。つまり「御父(神)→御子(イエス・キリスト)→御霊(聖霊)」という一連の愛の働きは二千年前に弟子たちの歩みを飛躍的に聖なるものへと刷新させました。神が全人類に対して御自分を明らかに示す(啓示)ときの歴史的順序が、「御父(神)→御子(イエス・キリスト)→御霊(聖霊)」という一連の愛の働きなのです。
そして弟子たちは、神から他の人々のもとへと遣わされて福音(よき知らせ)をあかしする使徒として前進しました。その宣教の活動は、聖パウロによるローマの信徒への手紙で鮮やかに語られました。使徒たちと出逢った相手は「聖霊によってキリストをとおして御父へ」と成熟しました。聖霊は御子イエス・キリストの存在意義を明らかに相手に実感させ、御子を理解した人は御子が示した御父への旅を始めることになります。人間による神への信頼は「聖霊によってキリストをとおして御父へ」という順序で深まるのです。
①「御父(神)→御子(イエス・キリスト)→御霊(聖霊)」(御父は御子をとおして御自分を現わし、御子のことをあらゆる人間に理解させるために聖霊が遣わされる)という啓示の道行きと②「聖霊→御子→御父」(聖霊によってキリストをとおして御父へ)という信仰覚醒の道行きとは、ちょうど壮大な救いの歴史における往還運動(①⇔②)になっています。四世紀のナジアンゾスの聖グレゴリオスが380年頃にコンスタンティノープルの総主教として信徒たちに連続講話を語った際に「第五神学講話」のなかで①と②の往還運動を丁寧に説明しました。第一と第二の講話は「御父」について述べ、第三と第四の講話は「御子イエス・キリスト」について語り、第五の講話は「聖霊」への礼拝と感謝を捧げる内容となっていることから、五つの講話をとおして「三位一体の神」の意義が表明されています。この世が創造されるより以前から、御父と御子と御霊とは協力して愛のまとまりの姿として、まことの連帯のよろこびのうちに安らかに生きていたのです。
常に相手とともに生きる交流のよろこびの姿そのものが神の活動の仕方となっており、私たち人間もまた神の子として神の交流の素質をいただいて、他者と関わることで「相手を尊重して、ともに生きる愛の迫力」を実現することになります。他者とともによろこぶ連帯のすがたを信じること(=望むこと=愛を込めて生きること)が私たちの急務です。「おたがいに尊重し合いつつも心をひとつにして一致する連帯感」が、「三位一体の神」という神学用語に集約されています。しかし、知識として暗記するよりも、他者とともに交流して生きることのほうが三位一体の神のすがたを生きることにつながります。
(日曜日のみことば 2025-06-15)

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