6月11日 キリストの聖体

第一朗読  申命記 8:2-3、14b-16a
(モーセは民に言った。)あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 一 10:16-17
(皆さん、)わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

福音朗読  ヨハネによる福音書 6:51-58
(そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

祈りのヒント
今日の福音で、イエスは「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と言われます。
このイエスの言葉を聞いて、以前ある黙想会に参加していた時のことを思い出しました。その黙想会は「弱さという宝物」というテーマで行われていました。最終日のミサのとき、神父様が 「私たちの中で、神様がお創りになったものの中で、一番弱いもの、それはご聖体です」と語られたのが心に響き、今でも私の心にのこっています。
今、私は毎日畑へ行き野菜作りをしていますが、種をまき育て、採れたものを調理し食べるとき、野菜の静けさと謙そんさ、無防備な姿を感じ、人間に食べられるために生き、育つもののすごさを痛感しています。
イエスは、食べられるものとなり、私たちを生かす。
このような人、このようなことを思い、生きる者が、神の子の姿なのです。ずいぶん前のことですが、私は千葉県の障害を持つ人のための 小さなグループホームで少しの間働いていたことがありますが、あるとき、私は仕事で大きな失敗をし、かなり落ち込んでいました。 そのとき、そのホームを利用されていた女性の方に、「どんまい」と笑顔で声をかけられ、私は生き返った思いがしました。実際、彼女の方が私よりもずっと多くの失敗や辛さを日々抱えて生きているのに、その痛みを超えて励ましてくれた笑顔に、私は救いを感じました。
イエスも、そうです。多くの痛みを身に負いながら生きたパンの姿になって、私たちの内に宿り、こう語りかけてくださいます。
「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。」
(日曜日のみことば 2023-06-11)

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