6月12日 年間第10水曜日

第一朗読  コリントの信徒への手紙 二 3:4-11
(皆さん、)わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。
ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。

福音朗読  マタイによる福音書 5:17-19
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」

祈りのヒント
神は、人の命を守り、人を生かすために、律法を定められた。
どんな小さな掟も、神の慈しみの御心から導き出されている。
その御心に、心を重ねたイエス!
禁止することではなく、神の憐みの心をもって、人に施し、自分を与えるイエス!
天の国で最も大いなる者と呼ばれるものだ。
わたしたちは自分の義をたてることに一生懸命だ。心が向かう先は自分、神にも人にも心は向かない。
愛することができるだろうか?
天の国では、最も小さな者と呼ばれるだろう。それでも、天の国から排斥されず、居場所が与えられていることを心に留めたい。
一点一画の小さな文字のような存在であっても、ご自分が小さくなって、どんなに小さな存在をも受けとっていくイエスの愛こそ、律法を完成させる愛なのだろう。
この愛を汲み取りながら、人を大切にしていこうと決心する。
(毎日のみことば 2019-06-12)

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