6月13日 聖アントニオ(パドバ)司祭教会博士

第一朗読  コリントの信徒への手紙 二 3:15-4:1、4:3-6
(皆さん、)今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも(イスラエルの子ら)の心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

福音朗読  マタイによる福音書 5:20-26
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

祈りのヒント
わたしたちは、イエスから、「ばか」「愚か者」と言われたことは無い。むしろ大切にされている自分を実感するとき、兄弟に腹を立てるわたしの心には、自分の正しさが居座っていることに気づく。
「殺す」ことが、愛の関係を断ち切り、相手の存在を否定することなら、自分の正しさをもって、兄弟を無視したり、否定する心の根先も、「殺す」ことにつながっていくのだろう。思ってもみなかったが大きな罪ではないか!
「仲直り」と「和解」が愛の関係を回復する道!イエスは反感を持っている兄弟と(十字架で)自ら仲直りをした。
この赦しの愛につながって、自分の正しさの根を、イエスの愛の根に向け直し、イエスが備えた救いの道、「仲直り」の一歩を踏み出してみよう。
この小さな一歩が、正しさに生きるファリサイ派の義にまさる、大きな一歩になるかもしれない。
(毎日のみことば 2019-06-13)

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