日曜日のみことば
6月23日 年間第12主日
第一朗読 ヨブ 38・1、8-11
主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。海は二つの扉を押し開いてほとばしり 母の胎から溢れ出た。
わたしは密雲をその着物とし 濃霧をその産着としてまとわせた。
しかし、わたしはそれに限界を定め 二つの扉にかんぬきを付け
「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。
第二朗読 Ⅱ 二コリント 5・14-17
(皆さん、)キリストの愛がわたしたちを駆り立ててい(ます。)わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(のです。)
福音朗読 マルコによる福音書 4・35-41
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
祈りのヒント |
イエスに誘われ、イエスと共に弟子たちは群衆を岸に残して、舟で異邦人であるゲラサ人の地に向かう。ガリラヤ湖は、北方に高い山をいただくゴラン高原のふもとに水をたたえる。北の高い山々が急に雨雲におおわれ、雷がとどろくと、突風が高い山々から湖面に吹き落ち、荒れ狂う。そして、船と漁師たちを襲う! 「激しい突風が起こり……。」古代の人々にとって、海は恐ろしい破壊力をもつ神的な存在でもあった。ペトロとその仲間たちは経験豊かな漁師であったが、そのときの嵐と突風は彼らの力を遥かに超えていたようだ。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」 マルコは「艫の方に眠っているイエス」と、「危険の中で怯えている弟子たち」 のコントラストを強調する。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」 福音書の中では、海は悪霊の領域を意味しており、イエスは汚れた霊に対するのと同じように 「黙れ、静まれ」 と命じる。 そして、「風は やみ、すっかり凪になった。」イエスの権威ある言葉によって悪の領域である海は治められる。 たまに、私たちの人生にもこういう時、時期がある。イエスが眠って、何もしてくれないように感じる。時間だけが無駄に過ぎてゆくように感じる自分の自律神経、あの人の病気の治療、この人の回復、リハビリなど長い、長過ぎる、しんどい、怖い……。 しかし、その後に、やはりあの湖の嵐の時のように、イエスは起き上がって、苦悩の風を叱り、「黙れ、静まれ」と言われる。 すると、風はやみ、すっかり凪になる。そして私たちにも言われる。「なぜ怖がるのか。 まだ信じないのか。」 イエスは弟子たちの“不信仰”を戒める。ここでイエスを通して、神に信頼して生きるかどうかが、問われている。象徴的な意味でも、(教会という船の中で) イエスが共にいてくれることを見失いそうになったときに、この弟子たちの体験を思い出そう! 弟子たちの驚きの反応と問い。「この方はどなたなのだろう。」風を従わせる主としてのイエスの姿を心にとめるようにマルコは読者たちに諭している。人生の嵐の時にそれを思い起こし、共に主に祈りたい。 |
(日曜日のみことば 2024-06-23) |