6月27日 年間第13主日

第一朗読  知恵の書 1:13-15、2:23-24
神が死を造られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られた物は価値がある。
滅びをもたらす毒はその中になく、陰府がこの世を支配することもない。
義は不滅である。
神は人間を不滅な者として創造し、御自分の本性の似姿として造られた。
悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 二 8:7、9、13-15
(皆さん、)あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです。

福音朗読  マルコによる福音書 5:21-24、35b-43
(そのとき、)イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
《さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、》
会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

祈りのヒント
今日の「出血の止まらない女のいやし」の話は「ヤイロの娘の救い」の話に挿入された形になっている。ヤイロの娘の話はヤイロとイエスの出会いで始まる。ヤイロはイエスが死にかかっている娘をいやすことができると信じている。イエスはその心を受け入れ、ヤイロの家に向かって出かける。途中でヤイロの信仰が大いに試される。イエスと「出血の止まらない女」との出会いによってヤイロの娘が後回しにされる。
もはや人間的な解決がなくなった女は密かに、しかし、必死の思いで、イエスにいやしを求める。彼女は出血があるために、汚れた者と見なされ、人々との交際を禁じられていた。イエスのことを聞いて、後ろから、そっとイエスの服に触れる。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、触れた者を見つけようとされる…。
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」真の救いはイエスとの対話にあり、皆の前で彼女のすばらしい信仰を褒める。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と。
イエスと「出血の止まらない女」との出会いの最中、ヤイロの娘が死んだので、もう救いの見込みがなくなったという知らせが届く。イエスはここでヤイロに「恐れることはない。‟それでも信頼を持ち続けなさい”」と言われる。イエスは、ヤイロに試練を乗り越える信仰の歩みを求める。「眠っているだけ」とはイエスの死についての理解を私たちに示している言葉である。「タリタ、クム」は、イエスの(アラム語の)生の声が伝えられていると思われる。その少女の救いの時に居合わせていた3人の弟子が、このイエスの言葉を初代教会に残してくれたのだろう。
幸田和生司教はこの二人の信仰・信頼について次の感想を著している。「苦しみの中にあって、神の救いの力、イエスの力に唯一の希望を見出し、ひたむきに助けを求めていく姿勢である。いやしの出来事における信仰とは、そういうものである。『この人なら何とかしてくれる』と思い、ひたすらイエスに向かっていく態度なのである。」*
その素敵な出会いの時に居合わせていたペトロ、ヤコブとヨハネという三人の弟子の心で、主イエスの救いの言葉を新たに黙想したい。

* 出典: 幸田和生(著) 『新約聖書 マルコによる福音書 上』 (NHKこころをよむ テキスト) NHK出版 1995年 P135

(日曜日のみことば 2021-06-27)

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