6月7日 三位一体の主日

第一朗読  出エジプト記 34:4b-6、8-9
(その日、)モーセは前と同じ石の板を二枚切り、朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、(た者)」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」

第二朗読  コリントの信徒への手紙 二 13:11-13
兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

福音朗読  ヨハネによる福音書 3:16-18
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

祈りのヒント
 周りの人から、無視されたり、拒否されたりすることは、とても辛くて、悲しいことです。ましてや、自分が愛している人から同じように拒まれると何日も落ち込んでしまうのではないでしょうか。
イエスは、「神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じるものが1人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」と言われます。私たちは、自分の子を差し出すほどの愛を持っているでしょうか。それも、周りから拒否されるだけではなく、排斥され、殺されるために、差し出すことができるでしょうか。
おん父は、それほど私たちを愛してくださっておられます。おん父は、私たちが【永遠の命】を得るためには、何ものも惜しまずに与えてくださるお方です。それは、母親が自分の子のために何ものも惜しまずに育てる愛に似ているのではないでしょうか。
おん父の愛は、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自分の子イエスをこの世に遣わされるほど、私たちを愛してくださっておられます。しかし、この世には、イエスを信じることを拒む人もいたのです。ヨハネ福音書の1章には、「み言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。しかし、その名を信じる者には、神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1・11〜12)とあります。
ここに一つの希望があるような気がいたします。それは、「イエスを【信じる】」ということです。イエスは、「御子を信じる者は、裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じなかったからである。」と言われます。イエスは、ご自分を信じる者は「裁かれない、救われる」とお約束されます。
私たちがイエスの愛に応えるということは、私たちを先に愛されたイエスを【信じる】ということではないでしょうか。「独り子の名を信じる」ということは、イエスの全てを信じる、愛するとことと言ってもいいでしょう。私たちは、これほどまでも私たちを愛してくださった、イエスを思い、信じながら歩んで行けるといいですね。
(日曜日のみことば 2020-06-07)

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