7月16日 年間第15主日

第一朗読  イザヤ書 55:10-11
(主は言われる。)雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:18-23
(皆さん、)現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

福音朗読  マタイによる福音書 13:1-23
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
《弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。 だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」》

祈りのヒント
種をまく人は、平等に、あらゆる土地に種をまきます。しかし、いのちの可能性を秘めている種は、受け容れ先の状況に応じて異なる結末を迎えることになりました。

私たちも神からいのちをいただきました。いのちという種をいただいた私たちも、どのような環境で生きるかどうかで、異なる結末を迎えます。

どのような環境が種の生育に適しているのでしょうか。どのような環境がいのちの開花に適しているのでしょうか。それは、「良い土地」です。マタイ福音書では、イエス・キリストの口から「良い土地」という理想的な答えが示されています。

私たちの心は、果たして「良い土地」となっているのでしょうか。もしかしたら、「道ばた」か「石だらけで土の少ない所」か「茨のあいだ」か、過酷な状況となってしまっているのかもしれません。

神の呼びかけは、今日もまかれています。神からの愛情のこもった呼びかけは、まさに種です。その呼びかけを、どのように受け留めるかどうかで、私たちの価値が決まります。ていねいな受け留めかたが大事となります。「耳のある者は聞きなさい」というイエス・キリストの呼びかけは「あなたは神からの愛の言葉をどのように受け容れるのでしょか」と問いかけているかのようです。

ひとりひとりの人間の心のおもいが、ていねいに相手を受け容れる「良い土地」のような状況となっていれば、ひとりひとりの将来も明るいものとなります。そういう共同体の在り方が社会の方向を決めます。

神からの愛の呼びかけという種は決して無駄にはなりません。「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない(イザヤ55:11)」というイザヤ書の一節からもわかります。

「うめきながら待ち望む。」神からの愛の呼びかけという種を、いったいどのように受け留めるべきかを、私たちは絶えず自問自答しつつ、今日も理想的な自分の心ができあがる日を待望するのです。

(日曜日のみことば 2023-07-16)

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