7月18日 年間第16主日

第一朗読  エレミヤ書 23:1-6
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。 「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。
見よ、このような日が来る、と主は言われる。
わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。
王は治め、栄えこの国に正義と恵みの業を行う。
彼の代にユダは救われ
イスラエルは安らかに住む。
彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 2:13-18
(皆さん、)あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

福音朗読  マルコによる福音書 6:30-34
(そのとき、)使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

祈りのヒント
相手を「見て……深く憐れむ」イエス。しかし、私たちの場合は、相手を「見ないで、たいして何も感じないままで通り過ぎる」ことが多いのかもしれません。そうなると、まず、相手に目を向けて、相手の気持ちを察してから、自分の身で相手の痛みを感じようと意識的に努力することが、私たちにとっては何よりも必要になるのかもしれません。

イエスは弟子たちを休ませようとします。弟子たちが疲れやすく、他者に対しても大して興味をもとうともせずに、イエスから後押しされるから仕方なく人助けを事務的にこなしているだけだからです。
しかし、イエス自身は相手を見て助けることに対して、何らの疲れも感じません。むしろ、イエスは四六時中奔走したとしても決して疲れたりはしません。イエスにとっては、打ちひしがれて弱っている相手の苦悩を黙って見過ごすことができないからです。どうしても助けたくて助けたくてたまらないのです。みなさんも自分の大切な人を助ける際に、どのような苦労もものともせずに、すべてのエネルギーをつぎこむことができるはずでしょう。大切な人を最優先するわけです。関わりの深い相手のことをおもえばおもうほど、すぐに何とかしたくてたまらなくなるものです。
ところが、弟子たちは相手を大切におもっていませんでしたので、相手のためにいのちをかけるだけの熱意がなかったのでしょう。事務的に仕方なく奉仕するだけの弟子たちは意欲がなく、熱意をもたず、ただイエスから言われたままに仕事を手伝うに過ぎず、自発的に生きていないので、ただひたすら疲れるだけの人生を送っていました。そこで、イエスは大切な弟子たちの姿を観るにつけて、休ませるべきだと察したのです。

「主は我らの救い」というメッセージを生きる「希望の若枝」としての王の姿を預言するエレミヤ。彼は、神のいつくしみが幅広く、あらゆる人にもおよぶことを夢見ています。イエスが生まれるよりも、はるか以前からあらゆる人の苦悩を理解して、いっしょに歩む指導者が現われることに、エレミヤは期待を寄せていました。エレミヤは、あらゆる人の望みを察して理想の王の姿を想い描いたのかもしれません。

「キリストはわたしたちの平和」という言葉や「キリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができる」という言葉は、パウロ独自の呼びかけとして記憶されてきました。キリストは徹底的な安らぎを与える救い主であり、私たちを御父のもとへと導く案内人でもあることを、パウロが教えてくれるのです。相手を孤独から救い出して、神との親しさに招き容れるキリストの「つなぎ」の実力は御父のいつくしみを具体的に示してくれます。しかもキリストは、あらゆるものをひとつにつつみこんで安らぎのうちに憩わせる聖霊の働きをも生じさせるのです。

(日曜日のみことば 2021-07-18)

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