7月20日 年間第16主日

第一朗読  創世記 18:1-10a
(その日、)主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」
その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」
アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。
彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」

第二朗読  コロサイの教会への手紙 1:24-28
(皆さん、)今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。

福音朗読  ルカによる福音 10:38-42
(そのとき、)イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

祈りのヒント
姉のマルタと妹のマリアは、イエス・キリストに信頼して生きていました。よき仲間として。しかし、姉のマルタは妹のマリアを理解できませんでした。姉は自分にこだわり過ぎるあまり、妹の状況をわかろうとはしていなかったからです。
自分だけを見て生きている人も、姉のマルタと同じ不満をいだきます。つまり、自分だけが頑張って働いているだけで、まわりの他の人々は何もしていないと考えて、怒りを感じるわけです。
姉のマルタはイエス・キリストから注目を浴びたかったのです。マルタは、「自分がこれだけ頑張っておもてなしをしているのだから、早くイエス・キリストに気づいてほしい」と、心の底から願っていたのでしょう。しかし、いつまでたってもイエス・キリストが何も反応しないので、姉のマルタはしびれを切らせてイエス・キリストの耳元で不満を述べました。姉が妹に対しては直接何も言わなかったことから推測すると、マルタがイエス・キリストへのあてつけの気持ちを強くいだいて、くやしさを爆発させたことがわかります。
しかし、イエス・キリストは「マルタ、マルタ」と愛情深く名前を呼びました。相手を大切におもうイエス・キリストの心が伝わります。そしてイエス・キリストは「マリアは、良いほうを選んだ」と述べました。まだまだ人間的に成熟していない状態の妹のマリアは、まずはイエス・キリストのそばで過ごすことで、アドヴァイスを受けてから、次第に他者をもてなすことの意味に気づくようになり、ようやくもてなしの働きをする段階に達することになるからです。
姉のマルタは、すでに相手を気づかって丁寧にもてなすための働きかたをわきまえているという点で成熟しているので、その歩みをそのまま続ければよいだけで、初心者と自分を比較して嘆く必要はないわけです。姉のマルタは自分が進むべき奉仕者としての意味のある道に突き進まずに、イエス・キリストが振り向いてくれないことに怒りを感じたり、初心者の妹に嫉妬しており、自分の良さを忘れていたわけです。
今日の私たちもイエス・キリストの気を引こうとして、なじるような言葉でつぶやいたり、他の人の現実を見ようとはしない場合があります。しかし、いまや、パウロのように「キリストに結ばれて完全な者となれるよう」に、アブラハムのように「まことのもてなし」を実行できるように、自分の姿勢を正して、相手に心を開いてゆきたいものです。
(日曜日のみことば 2025-07-20)

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