7月25日 年間第17主日

第一朗読  列王記 下 4:42-44
(ギルガルの地が飢饉に見舞われていたとき、)一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人(エリシャ)のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。

第二朗読  エフェソの信徒への手紙 4:1-6
(皆さん、)主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

福音朗読  ヨハネによる福音書 6:1-15
(そのとき、)イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

祈りのヒント
このみことばに触れたとき、私のうちに2019年11月25日東京ドームで行われたフランシスコ教皇様のミサの光景がひろがり、そのときの感覚が身体によみがえってきました。
東京ドームに集まった約5万人の人たちは、教皇様が「感謝の祈りを唱えたパン」をいただき満腹になりました。私もあふれる恵みをいただき、喜びと感謝のうちに帰路に着いたのです。今ここにいる私がみことばによって、教皇ミサでの体験を思い起こし、時と空間を越えて2000年前の草の上に座った一人になった体験をしました。草の上に座った私と大勢の人たちは、イエス様が「天を仰いで感謝の祈りをささげたパン」によって、天の御父からあふれる恵みをいただきました。その恵みは私たち一人一人を満たしても余ってしまうほどのたくさんの恵みです。
「私は日々の生活の中で、そのあふれるほどの恵みを実感しているだろうか。」そんな思いがわきあがってきました。コロナ禍の中、ミサにあずかることはできず、教会にすら自由に行くこともできません。また同じ信仰を持ち、祈りあい、支えあってきた仲間とも思うようには会えない状況です。ともすれば祈っていても、この状況からぬけ出したいというお願いや、ネガティブな感情に振り回される祈りになってしまうことが多々あったように思います。
今日のみことばによって私は、私たちがどんな状況にあっても常に、天の御父はあふれる恵みを注いでくださっている、ということを思い起しました。また復活されたイエス様は、時と空間を越えていつも私と共におられ、私を励まし力づけてくださっていることも実感しました。
(日曜日のみことば 2021-07-25)

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