7月26日 年間第17主日

第一朗読  列王記 上 3:5、7-12
その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。(ソロモンは答えた。)「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
主はソロモンのこの願いをお喜びになった。神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:28-30
(皆さん、)神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

福音朗読  マタイによる福音書 13:44-52
(そのとき、イエスは人々に言われた。)「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
《「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」》

祈りのヒント
今日の福音は、「神の支配」とも訳される「天の国」についてのイエスの言葉です。マタイ福音書では、洗礼者ヨハネもイエスも、宣教活動の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた」であったと記されています(3:2、4:17)。神の愛がすべてを支配する天の国は、「持ち物をすっかり売り払って」でも手に入れる価値がある。今日の福音の前半は力強くそう告げています。イエスの時代には、壺に財産を入れて畑に埋めるのが、強盗や兵士たちの略奪から財宝を守る確実な方法であったようです。何らかの理由で存在が忘れられていたその壺を見つけた人の大きな幸福。探し求めていた最高級の真珠に出会った商人の大きな喜び。そのとんでもなく大きな幸福や喜びに例えられる「天の国」。自分を振り返ると、まだまだその真価が分かっていないと痛感します。
後半からは、「天の国」には相応しいものとそうでないものがあるというメッセージが聞えてきます。教皇フランシスコは、「教会から、イエスに源を持たないものをすべて退けたい」と仰ったと伝えられていますが、ここでのイエスの教えは、まさしくそういうことでしょう。独り子を遣わしてその命を捧げるほどに私たちを愛してくださっている神。その愛が支配する天の国。そこに生き、その愛に生かされる者は、パウロも指摘する通り、敵意や争いや利己心や妬みから解放されて、喜び、平和、寛容、柔和に生きるようになるはずです(ガラテヤ5:16-26他)。
今日のイエスの言葉を受けて、私達が、虚しいこの世の権勢や物質的な富を追い求めることなく、真に価値のある「神の国」だけを望んで、神の愛に生かされる日々を送ることが出来るよう、改めて心から祈り求め、自分の生き方を省みたいと思います。
(日曜日のみことば 2020-07-26)

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