7月4日 年間第14主日

第一朗読  エゼキエル書 2:2-5
(その日、)霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」

第二朗読  二  コリントの信徒への手紙 12:7b-10
(皆さん、わたしが)思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

福音朗読  マルコによる福音書 6:1-6
(そのとき、)イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

 

祈りのヒント
私たちは、時々周りの人に対して、「先入観」をもったり「レッテル」を貼ったりして、本当のその人の【良いところ】を見逃す傾きがあります。例えば、「あの人は、怒りっぽいから」とか「あの人は、優しすぎてちょっと」というように何かしら【フィルター】をかけて相手を見てしまいます。さらに厄介なことには、このフィルターは一度定着すると、よほどのことがない限り、その人の本質を見つめ直すことができなくなるということです。
きょうのみことばは、イエスが弟子たちを連れて、故郷であるナザレに行く場面です。イエスは、弟子たちを自分が生まれ育ったナザレに連れて行き、マリアや親戚、友人たちを紹介したことでしょう。
安息日には、弟子たちや友人たちや、幼い頃からイエスを可愛がってくれた人たちと共に、会堂に行ったのでしょう。イエスは、久しぶりに帰ってきたナザレの会堂で教え始められます。みことばには、「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。……姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか』」とあります。彼らは、一応イエスの教えに耳を傾け、【聞き入る】のですが、その後は自分たちが知っているイエスとのギャップに驚いてしまいます。彼らが知っているイエスは大工の子で、とてもこのような立派な教えや奇跡を行う【人】ではない、ということだったのでしょう。残念なことに、ナザレの人たちはイエスがあまりにも身近すぎてつまずき、本当のイエスの姿である【神の子】として見ることができなかったのです。
イエスは、ナザレでは少数の病人に手を置いて治しただけで、その他の奇跡を行うことができませんでした。イエスは、もっと人々の悩みを聞き、みことばを伝えたかったことでしょう。また、病に苦しむ人を癒されたかったことでしょう。しかし、人々があまりにも不信仰であることに驚かれ、奇跡を行うことがおできにならなかったのです。
「先入観」という【フィルター】は、その人の中におられる【イエスの姿】を見逃す危険性があるのではないでしょうか。私たちが【フィルター】を外して、身近な相手の中におられるイエスの姿、イエスの働きに目を向けることができたらいいですね。
(日曜日のみことば 2021-07-04)

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