7月5日 年間第14主日

第一朗読  ゼカリヤ書 9:9-10
(主は言われる。)娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 8:9、11-13
(皆さん、)神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

福音朗読  マタイによる福音書 11:25-30
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

祈りのヒント
 あるテレビ番組で、教皇フランシスコが地球を背負っているイラストのケーキが映っていました。その時私は、「教皇様はキリスト者として全世界のいろいろな問題を背負われているのだな」と思いました。私たちは、教皇様のように全世界を背負うというような大それたことはできませんが、大なり小なり常に何かを背負っているのではないでしょうか。
イエスは「労苦し、重荷を負っている者はみな、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われています。このイエスの言葉は、決して私たちの【重荷】を「取り上げてあげよう」とは言われてはいません。私たちがイエスの所に行っても、重荷は無くならないのです。ただ、その【重荷】への見方、受け入れ方が変わるのではないでしょうか。
イエスは、続けて「わたしの心は柔和で、謙遜であるから、わたしの軛を受け入れ、わたしに学びなさい。」と言われます。ここに、私たちが背負っている【重荷】へのヒントがあるのではないでしょうか。私たちは、できれば【重荷】など背負いたくはありませんし、拒んでしまいます。もしくは、仕方なく嫌々ながら背負ってしまっているのではないでしょうか。そのような気持ちで背負っている【重荷】はますます重たく感じるものです。
イエスは、私たちにご自分のような【柔和】と【謙遜】を学びなさい、と言われています。もし、私たちが自分に与えられた【重荷】をイエスの【柔和】と【謙遜】でもって見つめ直す時、その【重荷】に対しての受け入れ方が変わっていくのではないでしょうか。
私たちは、生きていく中で様々な【重荷】と直面し、背負っていかなければなりません、それは自分の性格の嫌な面であったり、人間関係であったり、仕事でのトラブルやノルマなど、何かしらのストレスという【重荷】を背負っています。私たちは、それらの【重荷】をイエスの【柔和】と【謙遜】から学び、イエスの軛を【受け入れ】ながら日々の生活を歩んでいくことができたらいいですね。
(日曜日のみことば 2020-07-05)

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