8月20日 年間第20主日

第一朗読  イザヤ書 56:1、6-7
主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
また、主のもとに集って来た異邦人が 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり 安息日を守り、それを汚すことなく
わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに
連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物と いけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 11:13-15、29-32
(皆さん、)あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

福音朗読  マタイによる福音書 15:21-28
(そのとき、)イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

祈りのヒント
これまで神とは直接的な「縁(えにし)」がなかった者たちが、唐突に目覚めることがあります。神がその者たちの心をゆさぶるからです。そして、神による異邦人の目覚めは、信仰の先達としてのイスラエルの民の心の奥底に独特な嫉妬心をかきたてます。神は、わけへだてなく、あらゆる人を目覚めさせ、おたがいに影響をおよぼし合う巨大な家族関係を実現させます。

決してあきらめずに、キリストに食い下がるカナン地方の母親の熱意は、すさまじいものです。自分の子どもを悪霊の支配から救い出そうとして、なりふりかまわず必死にキリストに助けを懇願する母親の姿は強烈です。しかし、この母親は、キリストによって信仰者の模範とされています。その母親は「あなたの信仰は立派だ」という、キリストからのほめ言葉を確かに受け取っているからです。そして、母親ばかりか、子どももまた無事に助かります。子どもは母親の努力によって救いにあずかるのです。

私たちは、どうでしょうか。この異邦の土地の母親のように、果たして、なりふりかまわず誰かの救いを目指しているでしょうか。あの母親は、大切な子どもを助けることばかりを考えてキリストに食い下がりました。子どもへの底なしの愛情のゆえに、あきらめない頑固さを母親は備えていました。母親は子どもを想うがゆえに強くなれるものなのです。

キリストは当初、カナン地方の母親を冷たく突き放します。救いには順序があることを理由にして。まずイスラエルの民が神の救いにあずかり、その後で異邦の者たちが神のお情けをいただくことになるという序列は、イスラエルの民にとっての常識的な発想でした。それゆえ、キリストもイスラエルの民の一員として常識的な応えかたを示しました。ところが母親にとってはイスラエルの民の常識などにこだわっている場合ではなく、何としても大切な子どもを救わなければならない状況でした。大切な者への愛情のゆえに、恥も外聞も全部かなぐり捨てて、母親は突っ走ります。キリストは母親の必死の愛情表現に心を打たれます。

私たちも人間的な常識にそって物事を見ることを脱して、必死に大切な者をかばい、救う手だてを求めてキリストと関わることが、いまこそ必要です。大切な人を、冷めたあきらめのうちに死なせるわけにはゆかないからです。信仰は愛情と結びついており、それゆえに希望の新境地を開く迫力に満ちています。

(日曜日のみことば 2023-08-20)

ページ上部へ戻る