日曜日のみことば
8月24日 年間第21主日
第一朗読 イザヤ書 66:18-21
(主は言われる。)わたしは彼らの業と彼らの謀のゆえに、すべての国、すべての言葉の民を集めるために臨む。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは、彼らの間に一つのしるしをおき、彼らの中から生き残った者を諸国に遣わす。すなわち、タルシシュに、弓を巧みに引くプルとルドに、トバルとヤワンに、更にわたしの名声を聞いたことも、わたしの栄光を見たこともない、遠い島々に遣わす。彼らはわたしの栄光を国々に伝える。彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献げ物として、馬、車、駕籠、らば、らくだに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る、と主は言われる。それは、イスラエルの子らが献げ物を清い器に入れて、主の神殿にもたらすのと同じである、と主は言われる。わたしは彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる、と主は言われる。
第二朗読 ヘブライ人への手紙 12:5-7、11-13
(皆さん、あなたがたは、)子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。
「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」
あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。
福音朗読 ルカによる福音 13:22-30
(そのとき、)イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
祈りのヒント |
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。」(ルカ9:51-52)イエスのエルサレムへの旅とは、イエスが最期を迎えることになった旅を意味した。今日の福音から、エルサレムへ向かって進んでおられるイエスの旅が、新しい段階に入る。そのテーマは、イエスの歩む道はキリスト者にとってどのような意味を持つのか、ということであり、言いかえれば私たち一人一人が、神の国へ入る条件とは何かを問われているのである。 「すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と言う人がいた。」これはこの時代の人々の関心事であり、ルカの教会の課題でもあった。イエスはその人の質問に応えないし、“最後の審判” の結果への普及もない。ただ、私たちに“今”おかれたところでの、努力と回心へ呼びかけるのである。「あなたも、狭い戸口から入るように務めなさい」と主は言われる。 イエスは「閉まる戸」のたとえで、 (神の国の) 家の主人である神と、入ろうとしている人々との対話を語る。「御主人様、開けてください」と言っている人々は、イエスを受け入れなかった当時のユダヤ人だけではなく、ルカの教会内で「一緒に食べたり飲んだりして、主イエスの教えを受けた人々」も含まれている。イエスとの表面的な関わりだけでは、救いの道にはつながらないのだ。イエスは、「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と戒める。「神の国の(正)義」を行うことが神の国に入る条件である。 戸口が狭くても、対比的に、東西南北から、多くの者が神の国に入り、神の愛のドリームが実現される集いに加わることもできる。旧約の預言者たちが既に預言した、“異邦人も神の宴会に招かれる”ことは、ルカなどの教会において実現されている。すなわち、そこでは、後の人 (異邦人)で先になる者があり、先の人 (ユダヤ人)で後になる者もある。 私は、使徒パウロのことばを連想する。「私たちはキリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」 (ガラ56参照) |
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(日曜日のみことば 2025-08-24) |