8月25日 年間第21主日

第一朗読  ヨシュア記 24:1-2a、15-17、18b
(その日、)ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、ヨシュアは民全員に告げた。「もし主に仕えたくないというならば、(ユーフラテス)川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。
わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」

第二朗読  エフェソの教会への手紙 5:21-32
(皆さん、)キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。

福音朗読  ヨハネによる福音書 6:60-69
(そのとき、)弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

祈りのヒント
イエスのガリラヤでの宣教活動のクライマックスとして、四福音書はいずれも、パンのしるしの出来事を記述し、さらに加えて、このような状況でのイエスの宣教活動の危機を暗示する。空腹の人々に食べ物を与え、また、食事の交わりを通して人々と分かち合うことは、イエスの行動の著しい特徴として鮮明に記憶され、伝えられたのであろう。
イエスのことばや行動による何かが、人々や弟子たちの間に非常に熱狂的な反応を巻き起こしたことは間違いない。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った(ヨハネ6:14)。」イエス自身はこのしるしのために、人々が自分を誤解していると感じ取り、彼らの自分に対するメシア的な期待には応えられないことを悟ったのである。
6章全体の一つの主題は、「イエスは命のパンの与え主」である。このテーマに関する、イエスと群衆・ユダヤ人・弟子たちとの対話によってイエスが何者であるか、またイエスの使命が何であるかが明らかにされていく。6章後半では、神が与えられるパンはイエスご自身であること、つまりイエスが命のパンそのものであると、ことばが飛躍していく。
今日の福音では、「わたしは天から降って来た生きたパンである(ヨハネ6:51)」というイエスのことばを聞いて弟子たちのつぶやきが始まる。イエスが、人の子として御父のもとから来たことや、その御父のもとへ帰ろうとしていることについての疑いである。著者ヨハネにとって、十字架上のイエスの死は “ほろび” の時ではなく、イエスの最高のアガペの行為であり、御父のもとへ移る時である。
イエスのことばは信仰の心でしか受け入れることができない。はかない存在 (=肉)である人間は、イエスのことばやしるしの深い意味を理解することができない。イエスのことばを受け入れて、イエスの霊を信じる時に、私たちはイエスの霊的真理に導かれる。イエスを信じることは御父からの贈り物である。ペトロはイエスのことばを受け入れ、イエスを“神の聖者” であると告白する。
多くの弟子たちはイエスのもとを離れ去ったが、ペトロはイエスのことばを受け入れ、信じた。そんなペトロの信仰を黙想してみたい。私は、イエスのことばを受け入れ、信じきっているだろうか?
(日曜日のみことば 2024-08-25)

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