8月31日 年間第22主日

第一朗読  シラ書(集会の書) 3:17-18、20、28-29
子よ、何事をなすにも柔和であれ。そうすれば、施しをする人にもまして愛される。
偉くなればなるほど、自らへりくだれ。そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。
主の威光は壮大。主はへりくだる人によってあがめられる。
高慢な者が被る災難は、手の施しようがない。彼の中には悪が深く根を下ろしている。
賢者の心は、格言を思い巡らし、知者の耳は、格言を熱心に聴く。

第二朗読  ヘブライ人への手紙 12:18-19、22-24a
(皆さん、)あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス(なのです。)

福音朗読  ルカによる福音 14:1、7-14
安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

祈りのヒント
今日の福音は、イエスが私たちに「婚宴に招待されたら、末席に行って座りなさい」と勧める場面を描いている。宴会の時のマナーなのだろうか。それとも、日常から身につけておくべきキリスト者としての態度なのだろうか。宴会の席という、この話だけならその両方とも読み取れる。
もしも宴会の時のマナーという話であれば、末席について、日本人は得意だ。
どんなパーティーでもよいのだが、職場全体の賀詞交換会とか、PTAの集まりとか、大人が大勢集まるパーティーではほとんど誰も上席の方に近づかない。できるかぎり食事が置いてあるテーブルに近く、できるかぎり壁に近いところに陣取り、遠くから上席の演台でマイクを握る人を眺める。だから、自ら進んで末席に着くマナーはわかっている。
では、日常から身につけておくべきキリスト者の態度ということになればどうだろう。こちらは少々考察が必要である。日本では、へりくだり過ぎて返って無礼ということを「慇懃無礼」という。音で「いんぎんぶれい」と聞けば、多くの人は「あ、あれだな」と思うのではないだろうか。「あの人はきちんとしていが、いんぎんぶれいだ」と言って、うわべは丁寧に振る舞いながら実は相手を見下し、尊大な性格であることを表現する。日本社会に長年生きていれば、一度や二度、こういう表現は聞いたことがあるだろう。
「慇懃無礼」の対義語は「横柄親切」「誠心誠意」。「あの人は『おうへい』な人だがとても親切だ」という言い方も聞くし、また、「あの人は、実際の行いも、ふるまいも、すべて心の底から行っている人だ。『せいしんせいい』とはこのことだ」という言い方も聞く。
私たちは心の底から知っている。キリスト者でなくても、人が心の底から誠の心、誠の意志をもって行動している姿がいかがに美しいかを知っている。要は、うわべだけで、人のことは分からない、心の目で見えない心を感じ取ることが必要なのだ。
しかし、ここから先はもっと肝心である。イエスは、あなたにお返しのできない人を招きなさいと付け加えている。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と。つまり、キリスト者に求められているのは、ただ、心の底から浄らかでいなさい、ということでは足りない。具体的な、つまり、リアルなあなたの行動が求められる。
招く側という位置に立つ。それは当然だ。あなたが立つべきは招かれる側ではない。招く側だ。そして、次に、誰を招くのかという問題をイエスは私たちに突きつける。
あなたは誰をあなたの宴会に招くのですか?
あなたにお返しのできない人を招きなさい。
つまり、あなたのホスピタリティーは無償性という基礎に根づくべきだと……。
私たちはイエスに無償で招かれている。貧しき者たちの一人として、今度こそ私の方から「おかえり!よく来たね!」と手を広げ人びとを招きたい。
(日曜日のみことば 2025-08-31)

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